「見る」ことがもたらす「怖さ」 - 岡田一実『記憶における沼とその他の在処』

メモ

気になる情報をとりあえずメモし、そして忘れている。iPhoneのメモ帳に、「2018.11 岡田一実『記憶における沼とその他の在処』、チェスタトン『詩人と狂人たち』、山口つばさ ブルーピリオド」……とあるが、これは一体どこから得た情報なのだろう? それぞれジャンルがばらばらだ。そしてこのメモの存在を忘れた後で「ブルーピリオド」にも出会い、岡田さんの句集も読んだが、それは『光聴』だった。『詩人と狂人たち』に関しては、買ってすらいない。ともあれ、メモをしておくことは無駄ではない。こうして『記憶における沼とその他の在処』が読めたのだから。

「見る」こと

句集『記憶における沼とその他の在処』は2018年8月30日に青磁社から初版が発行され、2019年5月15日に重版している。

『光聴』でも以下のような句で感じたが、岡田さんは「見る」ことを通してその物を別の物へ変容させているような句をよく作る。

額の花その真ん中の沸き咲きて

こゑの目白すがたの目白梅に来る

雨後そのまま明るくならずソーダ水

一句目、「額の花」は額紫陽花のこと。「額の花」と一度言い、「その真ん中の」でクローズアップした後に「沸き咲きて」と表現する。俳句は短いから、「沸いているかのような咲きぶりだ」と伝えたいとき、このような言い切りをすることはありえるかもしれない。が、ここでは本当に「沸き咲」いている、ように思える。そもそも〈沸き咲く〉という複合動詞が、紫陽花のイメージとしてある涼しさや静けさを覆し、立体感を出すための一種の発明だ。

二句目、「こゑの目白すがたの目白」というのは変だ。梅の木のあたりにいて、目白の声はするが姿は見えない……と思ったら、視線を動かしたのか角度を変えたのかで、姿を見ることができた、というのが実際の景だろう。それが、あたかも目白には二種類(「こゑの目白」と「すがたの目白」)いるかのような書き方だ。〈見えない〉けれど〈存在する〉ことを、〈見える〉ときとは別の切り取り方をする面白さがある。

三句目、雨上がり(雨後)なのだから明るく……ならなかった。ソーダ水は誰のものだろう? なんとなく、グラスに注がれていて窓が見える位置に視点がある気がする。晴れたら外に出ようと思ったけれど、なんとなくすっきりとしないままで家にいることを決め、ソーダ水をグラスに入れたのだろうか。この句では、〈明るくなった雨後〉がどうしてもパラレルワールドのように存在する。そして、〈明るくならなかった雨後〉の分岐をとってしまったところを読まされる。読者は一瞬だけ、その二つの世界を見ている。

『記憶における沼とその他の在処』の、

十六夜の剥けば色ある海老の腹

の句は、『光聴』の

初東風やものめづらしき貝の裏

と同じ分類として僕の脳内の箱に入っている。

じっと見ている。剥いた海老の腹を、貝の裏を。波多野爽波『湯呑』に、

もぎてきて置きて石榴の形かな

という句があるが、ただ石榴を置いて見ているだけにも関わらず、石榴の形が新鮮なものとして迫ってくる。石榴をじっと見る。確かに石榴はこんな形だ。こんな形だったのか。こんな形か……? 「石榴」ではなく「石榴の形」と言われると、どんどん実物の「石榴」が認識と乖離していくような感覚に陥る。「十六夜の剥けば色ある海老の腹」も「初東風やものめづらしき貝の裏」も、同じようにゲシュタルト崩壊を起こす。海老の腹に色があるのは当然だ……当然か? こんな色だったか? この貝の裏は珍しい……珍しさとは何か?

一灯のながき螢や橋を越え
ちりぢりにありしが不意に鴨の陣

蛍の光はついたり消えたりするが、その光っている時間が長い、と気づく。瞬きをしていないだろう、凝視。その蛍が橋を越えていくところまでを切り取っている。それほど長い時間でもないだろうが、ゆっくりとした流れを感じる。

鴨があちこちにいたけれど、不意に集まり、あたかも「陣」のようになった。「陣」とまでいうのだから、かなり整然としている。見たことはないけれど――想像でき、笑えてしまう。

岡田さんの「凝視」を通して、新しい、見たことのない世界が見えてくる。

何か変だぞ

見ていると、世界が変容し今までと違ったものまで見えてくる。今までの世界が崩壊する。それは怖いことだ。

端居して首の高さの揃ひけり
口中のちりめんじやこに目が沢山
風船のしぼみて舌のやうなもの

一句目、「端居」とは風通しのよい縁側に出ていることで、夏の季語。複数人の、首の高さが揃った……。その理由が「端居」にあるかのような書かれ方だ。同じくらいの身長なら、端居しなくても首の高さは揃っていたのではないか? 端居したとき、座っていたのなら誰かがより猫背になったり、何かを覗き込んでいたりしたのだろうか? 立っていたのなら、どこか遠くの花火だとかを、各々が違う角度で見ていたのだろうか? ただ、〈縁側にいる複数人の首の高さが揃っている〉ことを、改めて言われると「なぜだろう?」と感じる。分からない。分からないけれど、何か理由があるように感じ、一生理解できないから怖いのだ。

倉阪鬼一郎『怖い俳句』(ズバリ! というタイトルだ)に、俳句は、

世界最恐の文芸形式でもあります。(p.3)

と説明されている。

俳句の怖さは、その決定的な短さに由来します。語数が足りていない俳句においては、たとえ謎が提出されても、委曲を尽くしてその謎を解くことができません。逆に、仮に解決めいたものが記されていたとしても、今度は謎が何であったか淵源へとたどることができなくなってしまうのです。(同上)

この「宙ぶらりんな状態」が怖さを生み出す。

二句目「口中のちりめんじやこに目が沢山」は、分かりやすい怖さだが、相当怖い。ちりめんじゃこを食べている人の本来の視線はなく、その人物の口が無理やり開けられ、ちりめんじゃこの夥しい数の目が映されている。「(目が沢山)だから……」という続きがない。読んでいる側は、ただ口の中にちりめんじゃこが沢山あり、そして目もそれに応じて溢れている様を渡され、茫然とする。

三句目、「風船のしぼみて舌のやうなもの」。普通に考えれば、「舌のやうなもの」に〈見える〉という繋がりになると思うが、俳句の短さゆえに略されている。だからこそ、順当に考えれば「風船」と「舌のやうなもの」は同一のものであるはずなのに、〈舌のような全く別のもの〉に変容してしまったかもしれない、と思う。それは言い過ぎかもしれないけれど、しぼんだ後の風船を見たとき、一瞬にして膨らんだ(一般的にイメージされる)「風船」に結びつかず、この〈舌のようなもの〉はなんだろう? と訝しむ。その疑い、というか得体の知れなさがつきまとうのではないだろうか。

文様のあやしき亀を賀状に描く

自分で描いているはずなのに、なんだこれは? と思う。実際は亀の文様も色々で、じっと見ているとどんどん「こんな柄が自然なものとして〈ある〉なんて!」と思うのだろう。けれど、自分の手で自分の意思で生み出しているものも、なんだかあやしい……。

セーターにあやしき柄のありにけり
/斉藤志歩

この句の「あやしき柄」は自分で生み出したものではないが、着ている人物は少なくとも自分の意思で着ているだろう。見ていて、なんだこれは? と思う。そこにある日常的な不思議さ。

そして岡田さんはついに、「見る」ことすらも解体してしまうのだ。

見るつまり目玉はたらく蝶の昼

「やめろ」俳句

思わず「やめろ!」と叫んでしまいたくなる句を集めている。きっかけは西東三鬼の句だった。

蛇の卵地上に並べ棒で打つ
/西東三鬼

この「やめろ!」と思わず叫んでしまいたくなる感覚も、俳句の短さ、そして言い切る形が多くなることに由来する。短歌ではなかなかできない。露悪的になってしまい、どうしても自意識が出る。

蟻の体にジユツと当てたる煙草の火
/鈴木しづ子

春の川手紙まろめて流しけり
/内藤鳴雪

どこの莫迦が人など造つた へい、あッしが
/関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』

蜂の巣をもやす殺生亦たのし
/橋本多佳子『命終』

俳句では、「なんでそんなことをした!?」という句でも、その理由が説明されない。だから「やめろ俳句」という、僕が独自に蒐集しているジャンルが成り立つ。『記憶における沼とその他の在処』でも見つけることができた。

かたつむり焼けば水焼く音すなり

荻原裕幸さんがツイートされていたが、料理の句だとも解釈できる(リプライで三島ゆかりさんが「エスカルゴだと季語にならない」ことも指摘しているが)。けれど、なぜ焼いたのか分からない。それは料理であるか分からない、ということだ。僕は別に動物に危害を加えてほしいと言っているわけではないが、この句の中では料理という営みではなく、かたつむりが焼かれていてほしい。なぜそんなことをするのだろう? と思いたい。これは僕にとっては怖い俳句、「やめろ俳句」なのだ。

三鬼繋がり

「やめろ俳句」の最初にあげた三鬼が句の中に出てきた。

三鬼忌の明けて朝なるバーにゐる

僕が知っている限りでは、俳句を嗜む人はお酒も好きな人が多い。尾崎放哉は小豆島に行く前日に、師匠である荻原井泉水から

あすからは禁酒の酒がこぼれる

と扇子に書いてもらったのに(送別吟の「銀河も濃くなつた事云ふて別る」なども美しい)、島でも酒を断てなかった(村山古郷『大正俳壇史』参照)。

放哉は極端な例だが、三鬼もお酒に関するエピソードはあり、『神戸』の冒頭でバーにいる。東京から単身神戸に「脱走」し、宿も決めて来なかったのでその晩のうちに泊まるところを探さなくてはいけないのだ。なぜそんなときにバーにいるかというと、「東京の経験では、バーに行けば必ずアパート住まいの女がいる筈」だからだそうで、実際、バーで働いてそうな女性を見つけて、本当にバーに入って行ったのでそこでアパートを兼ねたホテルを見つけたエピソードがある。岡田さんの句では、この話を思い出さずにいられない。当時の三鬼は一時間ほどでバーを出て、夜のうちにホテルに移ったが、句では朝のバーの景だ。物語の終わりのような、くたびれながらもどこかあっけない感じ。〈明ける〉か〈朝〉のどちらかではなく、「明けて朝なる」という言い方が、(おそらく晴れている)明るさを連れてくる。

いろいろと書いたけれど、僕は本当にこの句集が好きだ。最後にどうしても紹介したい五句を引用したい。

阿波踊この世の空気天へ押す
碁石ごと運ぶ碁盤や梅月夜
新涼や口を漱げば意識に歯
男娼と見てゐる菊の豪華かな
七夕や鋏つかへば紙の圧

阿波踊りのダイナミックな感じ、「語碁石ごと運ぶ碁盤」の場面の切り取り方、「意識に歯」・「豪華かな」の驚くような言い方、「紙の圧」を確かに感じたことがある……その触覚へのアプローチ。

『記憶における沼とその他の在処』、ぜひ読んでみてください。