橋爪志保『地上絵』について

I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる
/「地上絵」

この表題歌の魅力は、「わたし」と「あなた」の関係性において何も保証がないことを、ここまで堂々と言ってのける点にある。「わたしは大丈夫」ということと、「あなたは大丈夫」ということは、本来繋がりがない。別の存在だからだ。「あなたがいてくれるならわたしは大丈夫」、そして「わたしがいればあなたは大丈夫」ということはあるだろう。しかし、「わたしは大丈夫」だから「あなたは(同様に)大丈夫」であり、一字空けで一気に欲しいと言った覚えのない地上絵を渡される。地上絵なんてもらっても、何にどう使えるのだろう。そもそも空から見ないとなんの絵だか分からない。それでも、「わたし」が自身が「大丈夫であること」を言い切り、「あなた」の状態も同様に「大丈夫」と断言する。びっくりするような贈り物をあげたくなるその気持ちに、日常から吹き飛ばされる心地がする。スケールの大きい歌だ。なんの解決にもなっていないかもしれなくても、言い切ってくれたこと自体が、「地上絵あげる」と押し付けられたこと自体が、なんだかおかしくて頼もしい。「大丈夫」には不定冠詞(a)がついているので、「大丈夫」は〈状態〉ではなくてIもYouも〈存在〉のように感じられるところもおもしろい(宇都宮さんの解説でも触れられている)。『地上絵』にはパワーのある歌がたくさんある。

好きな歌10首

僕の好きな歌をまず10首あげる。たくさん付箋はついたし、この後で章立てして語る歌も、勿論好きな歌だ。だからこれが『地上絵』の「10首選」というわけではないけれど、とりあえず。

パンパカパンは何が開いているんだろう、パカのときに。 朝ちょっとだけ泣く
/地上絵

思い出と生活はほぼおなじものだから僕らはもう富豪だよ
/世界中の鳥の名前

シンバルを鳴らすたび髪吹き上がり祈りは君を君たらしめる
/ドレス!

存在が詩になるなんてゆるせない ただ暮れていく夕陽をにらむ
/わたしの絶望

抱き合うと完成するよほら僕ときみのみじめな全寮制が
/とおざかる星

生きてまでやりたいことがあまりないことがうれしいのを信じてよ /とおざかる星

きみがきみを調律しそこなったとき手紙はほんとうによく燃える
/息の根を呼びとめて

撫でていて 電子レンジが白湯をつくるあいだもきみは老いてゆくから
/灯台

新年の季語だといいな機関銃 雪の野原できみと撃ちあう
/舌を出してね

ミニチュアになれたらきっとのぼりたいきみの苗字にあるはしごだか
/ミニチュア

一首目。そんなこと考えたこともなかった。むしろ僕は「パン」で開いて「パカ」で一旦閉じて「パン」でもう一度大きく開くイメージを何故か持っていたので、「開いているのか……」と思ったし(普通に考えれば「パカ」は開く音だ)、「何が」と言われると確かに分からない。うーん、と考えている間に「朝ちょっとだけ泣」かれている。どうした……と思うが、朝からちょっとだけ泣いてしまう日に、全然関係ないことが頭をめぐってくるということはあるだろう。もしくは、「パンパカパン」というおめでたい音と共に、おそらくは嬉しいものが出てくる見慣れた演出に、よく考えたら分からないことがあるその不明瞭さに、意味もなく湧いてくる不安を重ねているのかもしれない。

「好きな歌」として評を書き始めたけれど、一首目から実は既によくわかっていなかった。橋爪さんの歌に辞書を引かなきゃいけない単語はないし、分かりやすい言葉で書いてある。けれど、じゃあこれはなんのことですか? と言われても、うまく説明できないことが多い。

たとえば二首目。「僕らはもう富豪だよ」で、「うん!」と頷いたり、「え? やったー!」と喜んだりしたくなるが、理由がよく分からない。「思い出と生活はほぼおなじものだから」。「思い出」と「生活」はどちらも「富豪」たりえる要素ではない。「ここで(誰かと・こんなふうに)過ごした日々が私の財産であり~」みたいな比喩の話なのか。

五首目。「抱き合うと完成するよ」、おっ、何がだろう? 「ほら僕ときみのみじめな全寮制が」。えっ? お城とか概念的なものじゃなくて……全寮制? しかも「みじめな」。もっと大層なものができると思っていた。あるいは、世間的には価値がないかもしれないけれど、二人にとっては尊そうなもの。かわいいもの。けれど、「みじめな全寮制」なんて誰も欲しくなさそう。そんな寮生活はいやだ。しかも未熟とか未完成ではなく、完成している。いや、そんなものなら完成してほしくなかった。でも、そのどこにも行けない感じ、抱き合ってもこんなものしか完成しなかったねと笑ってしまう感じが、「僕ときみ」の関係性を映しているのかもしれない。

七首目。「きみがきみを調律しそこなったとき」、「手紙はほんとうによく燃える」。歌はこのように大きく二つに分けることができるが、「調律」とは具体的に「きみ」をどうすることを指すのか。簡単に考えれば、やはり心身を整えること。「らしく」いること? しかし、それを「しそこなった」とき、手紙は燃えてしまう。それも「ほんとうによく」燃える。誰から誰への? 誰にも出せなかった? そのあたりは完璧に伏せられていて、まるで歌自体が燃えて灰になったかのように手がかりがない。燃えない材質で普通は手紙を書かないし、燃え方はきっとどれも大差がないはずだ。けれど、「きみがきみを調律しそこなったとき」は、「ほんとうによく」燃えるように思える。調律が失敗した罰のように? 或いは、その失敗を取り戻すかのように? 何故かしら、罰や見せしめのようには思えない。この歌の「手紙」が燃える様を綺麗なもののように思う。

十首目。「ミニチュアになれたらきっとのぼりたい」のは、「きみの苗字にあるはしごだか」。髙橋さんとか、そういった「はしごだか」が使われている苗字の「きみ」がいる。けれど、自身がミニチュアサイズになってしたいことといえば、「きみ」自身と何かするでもなく、普段見えているサイズの世界を冒険するでもなく、「きみの苗字にあるはしごだか」をのぼりたい。「きっと」には、その願望への強さ、切実さが込められている。これは「苗字」で主体が遊んでいるようにも見えた。人間は生まれながらにして苗字がついている。名前はなくても、その家に生まれたということで、自動的に。親の関係が変化したり、自身が結婚したりすれば、苗字が変わることもある。きみの苗字になりたいといったような、戸籍への憧れや欲望ではない。むしろ、そういったものを遊具のようにして世界を把握し直そうとする視線があるのではないだろうか。「きみになったら世界はどう見えるのだろう」とも、「きみと家族になったら世界はどう変わるのだろう」とも違う。苗字という「家」を表すものを、実際のぼることなんてできない。だからこそ、「ミニチュアになれたらきっとのぼりたい」という願望が強くなる。

関係性短歌

「関係性短歌」は僕がよく使う言葉で、「主に二者間の関係性を表していると考えて読むと面白い短歌・二者間の関係性を示しているといえる短歌」みたいな意味合いだ。短歌の世界には「相聞」という言葉があるが、これは本来それだけの意味ではないにも関わらず、「恋愛の歌」みたいな意味で使われることが多い。僕が言い表したいのは「恋愛」ではない。なぜなら「恋愛」は「関係」の内の一つに過ぎない。それも最重要でも最上位でもない。そもそも貴賤などないのだ。

街灯がLEDに変わってた きみが死んだとしてもゆるすよ
/星とカメレオン

「きみが死んだとしてもゆるすよ」と言われても、あ、はい……好きにしますが……という感じだが、「死んだらゆるさない」とか「死なないでほしい」という気持ちがその前にあるからこそ出てくる言い方だ。「きみ」というおそらくはたった一人の人間を短歌であらわすとき、どうでもいいということはあまりない。ある人物を「きみ」と言い表して登場させるとき、どうしてもそれが既知の人物であり、既知であるならば何かしらの関係はあるのだ。そんな「きみ」には死んでほしくないと思うのが、(こういう言い方はあまりしたくないけれど)一般的だ。不死は人によって幸か不幸か分かれるところだし、看取りたいか看取りたくないかみたいな話はもはやフェチの話になってしまうので避ける。とにかく、「きみが死んだとしてもゆるすよ」は、その死が偶発的なものであっても、自死であっても、とにかく「ゆるす」ということ。責めないということ。そういえば、どこかで青色のLEDに変えたら駐輪場での盗難が減ったとかいうニュースを見たことがある。もしかしたら光の種類や加減によって、何か心理的な話が他にあるのかもしれない。けれど、そんな学術的な根拠の前に、日常で目にする街灯(大きくて、主体や「きみ」が住んでいる街を照らす重要なもの)の種類が変わっていたということは、この歌では重要なことのように思う。日常の一部が変わること。それだけに限れば、「きみ」が死んでしまうことも同じだ。けれど、それを「ゆるすよ」と言う。人は人の生死を本来は恣意的に左右できない。そんなことは分かっている。自明だからこそ、「ゆるすよ」という宣言が、改めてがつんと響いてきた。

きみはぼくのために冷蔵庫の水を飲んでくれた うれしかった
/世界中の鳥の名前

初めて読んだときから好きな歌だが、「冷蔵庫の水を飲んでくれた」の正解が(あるのか?)分からないというのは、そのときから変わっていない。例えば水がもうだめになりかけていて、でも到底一人では飲み切れない。だから飲んでくれた。それは嬉しい。助かるなあ。または、「ぼく」は「きみ」の体調を気遣っていた。「きみ」は全然水を飲まない。けれど「ぼく」の前では自分の為ではなく「ぼく」のために飲んでくれた。これも嬉しい。他にもありえる話は幾つか思いつきそうだが、どれも本当にそうかな? と思う。けれど重要なのは、「ぼく」が「ぼくのために」と確信していること。そして、それが「ぼく」には「うれしかった」。「きみ」にそう伝えたのかはしらないけれど、もう、それでいいじゃないか……と思う。

いつかきみの代わりがあらわれる日までカセットの爪を折ろう 一緒に
/世界中の鳥の名前

唯一無二じゃないことを分かっている人間が発する言葉に弱い。上位互換だろうが下位互換だろうが、全く別の存在だろうが、とりあえず「代わり」はいるのだ。世界にたった二人で生きているわけではない。その「代わり」があらわれる日まで、「カセットの爪を折ろう」。「一緒に」! ただ下の句を繰り返すだけのロボットになってしまった。分からない人のために説明しておくと、カセットについている〈ツメ〉を折ると誤消去を防ぐことができるのだ。ちなみにテープを貼ればこの行為は無効化するのだが、たぶんそういう野暮な話はこの歌に持ち込めない。カセットの爪を折るような、ささやかな作業を一緒にしようと、いつか失われてしまうかもしれない関係性の人に呼びかける。せめて今は消えてしまわないように。

ここに来て一緒に濡れてほしいのにあなたは傘をたくさんくれる
/わたしの絶望
守る、と目をふせながら言われても いらない それより変顔を見ろ
/とおざかる星

歌の順番は変わるけれど、これは「そういうことじゃない」歌。一緒に濡れてほしいのに、あなたはそれ以上濡れないようにと傘をくれる。おそらく「あなた」は「ここに来て」と呼ばれるほど離れた(雨が降っていない)位置にいたか、傘をさしている。傘をくれるのはやさしさであり、きっと正しい。雨に濡れた人にすることは、まず傘を差しだすことだろう。それがきっと〈正解〉。でも、そういうことじゃない。

「守る」、と言われる。君を守ってあげる。君を守りたい。よくある台詞。「目をふせながら」は照れているのか自信がないのか分からないけれど、まっすぐ強気で言われているわけではない。けれどどちらにしろ、そんなものは「いらない」のだ。そういうことじゃない。それよりもおどけた顔を見てほしい。見ろ。ここにいるしこんな顔だってできる。

目を細めにらむみたいに紅葉を見るきみを守れば失うだろう
/日々

恋愛を宿さずきみに触れたことを一生かけて思い出すだろう
/とおざかる星

触れるという行為はどうしても欲望だったり慈愛だったりが絡んできて、恋愛や性愛の文脈を帯びる。けれど、「恋愛を宿さず」にきみに触れた。「宿す」という言い方はとてもささやかだ。意志を込めずとも自然に宿ってしまうこともあるだろう。けれど、それすらもない。そうして「恋愛」ではない磁場できみに触れたことを、主体は一生かけて思い出す。この「かけて」が、「一生の間、ずっと」の意味なのか、「一生涯を懸ける」の意味なのかはぶれるけれど、どちらにせよ強い意志を感じる。それくらい主体にとっては意味があった。恋愛じゃないことに。きみに触れたことに。

会っているとき会いたさは昼の月 即席のカメラで撮ってみる
/息の根を呼びとめて

慣用句・裏返す

橋爪さんの歌にはよく使われる言葉を違った感じに使ったり、意味を裏返したりする歌が結構ある。いわば異化だ。

かなしみについてこころを凝らすとききみと一枚岩になりたい
/岩

「凝らす」は目や息に使われることが多いけれど、「こころ」を凝らしている。集中させている。そのとき、「きみと一枚岩になりたい」という願望がある。

ボールペンでお米に文字を書いてみる僕にかけがえがあってもなくても
/とおざかる星

「かけがえのない」という言葉を、「かけがえがあってもなくても」と意味をぶれさせている。「僕」がどんな存在であろうとも、ボールペンでお米に字を書くような、だからどうというわけでもない行為を止めることはできない。

守りたいものはちょびっと そのことをばかにされるとわくわくしちゃう
/風なら

ふつうはばかにされたら怒れたり悲しくなったりするが、「わくわくしちゃう」。

対岸で光るちいさな映画館わたしの息の根を呼びとめて
/息の根を呼びとめて

呼び止めるのは、その人自身。肉体。けれど、「息の根」を呼びとめる。危ないんじゃないか? これが「呼び止めて」という呼びかけ(願望)なのか、「呼び止めて~する」の言い差しなのか、「呼び止めて(しまう)」の意味かで意味も変わってくる歌だ。僕は「呼び止めて(ほしい)」の願望の意味でとった。

きみといつ最後になるかわからないことをかなしみとも思わない
/息の根を呼びとめて

「いつ最後になるかわからない」ことは、そうわざわざ言われるのだからかなしいことなのかと思う。けれど、言っておいて「かなしみとも思わない」。思わないのかよ! と思うが、嘘ではなさそうだからむしろ好感を持つ。

じゃあ訊くよ 月のひかりにぬれているものを本当に見たことがある?
/かがやくゼリー

よくある言い回しにいきなり噛みついてくる。「じゃあ訊くよ」の喧嘩腰がすごい。「本当に」がつくと、言い逃れができない。もうここまでされたならこっちも本気でいかなくてはいけない。慣用句とか日常に浸透してしまったものを疑って、本当に、自分はこの目で見たことがあるのかどうかを答えなくては。

不幸せにまみれた顔もすてきだと信じるための舌を出してね
/舌を出してね

「不幸せにまみれた顔」も「すてき」。それ以外の顔だってすてき。というのは決まっていることではなくて、これから「信じる」こと。そのための「舌を出してね」と言われる。なぜ!? と思うが、これも規範というか、浸透してしまっていることへの抵抗のように思う。「信じるために」ではない。「舌」に焦点があり、こう言われたとき既に、僕たちは舌を出してしまっているのだ。

けどやっぱ愛は無礼と思うので植物園で虫を見たいな
/ミニチュア

〈愛〉は主に素晴らしいものとして語られている。僕は大学時代、文学部にいて読書ゼミの授業をとっていたが、「この本は○○である」と最初に書くように言われていた。そこで禁じられていたのは、「この本は愛の物語である」という書き方だ。〈愛〉はなんでも包み込む。縛るのも愛、自由にするのも愛、突き放すのも愛、生かすのも愛? 殺すのも愛!? そんなのめちゃくちゃだ。けれど、〈愛〉はそれほどに大きい。多くの物語では最終手段みたいな扱いだ。でも、だからこそ、「けどやっぱ愛は無礼」。

僕はそういう言い方を信頼している。

橋爪さんと僕

作者の話だ。読みたくない人は読まなくてもいい。僕と橋爪さんは同じ学生短歌会に所属していた。京大短歌だ。京大短歌といっても(よく間違えられるけれど)他の大学(大学院)の人間も入れるし、僕と橋爪さんは京大生ではない。僕なんかは京都の人間でもなかったから、歌会に参加できないときもあったし、二次会があってもすぐに帰ることが多かった。だから橋爪さんは僕の後輩として入って来たけれど、あまり会う機会もなかったと思う。ただ、溌剌と評を発表し、短歌を好きだと言い、分からないことは「どういうことですか?」とすぐに訊いたり、「そうは思いません」とはっきり答えたりする橋爪さんに、僕は尊敬の念を抱いていたし、憧れてもいた。追いコン(追い出し歌会とその後の飲み会)でようやくまともに話をした気がする。そこで橋爪さんが、僕と同じコンテンツを通ってきた人間だと分かった。ぼかすけれど、そのコンテンツの話しぶりが、どうにもライトな層の物言いではなかったのだ。これは僕は何か重要なことを見落としているな、と思ったときにはもう周りは出来上がっていて、酔った人間を介抱しながら帰った。橋爪さんと短歌以外のことを話すようになったのはそこからだ。

橋爪さんとどういう話をしているかとかをここに書くつもりはないけれど、僕は橋爪さんをいわば戦友のようなものだと認識している。何と戦っているかといえば、陳腐な物言いになるけれど、この世の理不尽さとか、押し付けられる観念、眼差し、差別、……。僕たちは抗いたいものが似ていると思ったし、こんなの嫌だね、と声を合わせてできた同人誌(「短歌の世」)があり、歌がある。橋爪さんが頑張っているのを見て励まされたことは何度もあるし、こんなのもうだめだよ、と電話口で言って「そんなことないですよ!」と即座に否定してくれたことは数知れない。そういうときたぶん、橋爪さんには根拠はなかったのだろうけれど、その速さと堂々とした口調が、僕には嬉しいものだった。

僕は橋爪さんに嫉妬することも多いけれど、橋爪さんはそういった負の感情に追いつかれる人ではない。すすんで評を書いて、絵を描いて、英語でも宣伝をして、絵や着物の企画と組んで歌を作る。橋爪さんはいつも新しい。いつも速いし、いつも明るい。でもそれは、無鉄砲さや無邪気さの表出ではなくて、むしろ怒りや嘆きをどう出したらいいか考えてできた武器であると思っている。橋爪さんはいつも戦っている。僕はそれを見るのが好きだし、一緒に戦うからね、と伝えているつもりだ。

橋爪さんへ

今日『地上絵』を買って、こういった文章を書いたけれど、どうかな。手紙のようになってしまったことは否めないけれど、こういうのはスピード感が大事だと思って……。こういうところも僕は影響を受けているのかもしれないね。改めて、第一歌集刊行おめでとう。これからより多くの人に『地上絵』が読まれることを、僕も期待しています。