二次創作短歌を作ってみよう

こんばんは、「鬼滅の刃 無限列車編」を観ました…………榊原紘です…………。はい!!! 今回は「二次創作短歌」を作ってみよう、ということで書いていこうと思います。

おことわり

始める前に 三点 、おことわりがあります。 一点目 、この記事では、感動した作品・心が震えた人物(二次元でも三次元でも)・好きだと思う複数人の組み合わせ……それら全てを 「推し」 、または 「推し◯◯」 と表現します。これは便宜上のものです。

とりあえず、この記事のテーマは 「推し○○よって感情が強く揺さぶられた」経験を短歌にしよう です。

二次元でも三次元でも、誰か(何か)を「推し」とまとめて呼ぶことについての考えは、最終項の 「物語るという暴力」 で書きます。

二点目 、この記事では短歌を作る際に気を付けた方がより伝わりやすいよというポイントについて書いていきたいです。そのため、「技術の話なんて堅苦しい」とか「好きに書かせてほしい」という人には向いていない記事になります。

三点目 、記事内で短歌の引用があります。技術の説明をする場合、例を出した方がわかりやすいと思うので。「この短歌はこういったプロセスを経て作りました」という話になるので、今回は「折句」の項を除き、僕の作品(歌集『悪友』に収録)だけを扱います。おすすめの歌人の方や、二次創作短歌の名手だなぁと思う方もたくさんいるので、いつか別の機会にnoteなりツイート(RT)なりで紹介したいです。

短歌って何よ

基本的には 5・7・5・7・7 の音数で形成された歌体のひとつで、 季語はいりません 。数え方は 「首(しゅ)」 です。5(初句)・7(二句)・5(三句)の部分をまとめて 「上(かみ)の句(上句)」 、7(四句)・7(結句)の部分をまとめて 「下(しも)の句(下句)」 と呼びます。これは基本なので「破調」と呼ばれる、31音ではない短歌も当然たくさんあります。

なんで短歌にするの?

まぁ別に短歌にしなくてもいいんですけどね……(完) 何かに感動してどう形に残すかは人それぞれです 。絵を描くひと、小説を書くひと、音楽を作るひと、日記に書くひと……そしてそれを他の人に見せるか見せないかも、みんな違います。 そこに「短歌にする」があってもいい んじゃないかな、と僕は思っています。(複数行に分けるひともいますが)一行で表せるし、読みやすい。ある程度基本の形がありますから、「とりあえずやってみる」ことができて、一旦は「完成」します。やり始めて終わりが見えないのってつらいひともいると思いますが、その点短歌は気軽じゃないかな? と思います。僕は気軽にやってみてほしいです(そこからの推敲や技術の習得は意欲的になった方が面白いですよ)。何を見て聞いて、それを自分はどう思ったのか、それのどこを自分はどう感じたのか。自分でも気づかなかったものが、言葉の形を借りて立ち上がってきます。昔作った短歌を読むと、なんだか一種のセラピーのように感じることもあります。誰にも見せなくてもいいんです。自分が好きだと感じたものを、自分で表現し直して、いつか思い出すために作ってみてもいいんじゃないでしょうか。

これをやめてみるといいかも

さて、ではさっそく短歌を作ってみましょう。本当に「何をもってして短歌とするか」は歌人にきいたら全員が全員違うことを言うんじゃないか、あるいは「作者が短歌として出したら短歌だよ」という回答が揃うか……。「いい歌」と思う基準もみんな違うので、技術の解説というのは相当難しいのですが、「○○をしたら」というよりは 「○○をやめたら」 という切り口の方がうまくいく気がします。まず、思いつく限り挙げてみますね。

  • 分かち書き
  • 極端な字あけ
  • 動詞が多すぎる
  • 呼び方がバラバラ

では、一つ目の 「分かち書き」 から。僕の『悪友』の一首目(「名画座」より)を分かち書きにしてみます。

すれ違う
手首の白い
春の果て
犬が傷つく
映画は観ない

う、うわぁ~~~……。なんで分けちゃった? 短歌は最初説明したように初句から結句までの5つのパーツで成り立っていて、自然に音が切れるような作りをしています。これは初期設定なんです。わざわざ分けなくても、

すれ違う手首の白い春の果て犬が傷つく映画は観ない

と書けば、自然に

すれ違う/手首の白い/春の果て/犬が傷つく/映画は観ない

と読むことができるんです。だから、わざわざしなくても大丈夫。分かち書きをする歌人の方いますが、それは句ごとに切っているわけではないですし、考えられたテクニックによるものです。見た目が好きじゃない、という人もいますし、技術の話をすると「句跨(くまたが)り」ができないからしない、という人が多いと思います。句跨りは、言葉の切れ目と句の切れ目が一致していないことです。前述の通り、短歌には初期設定で「切れ」がありますが、そこを強引に繋げ、リズムを変える。違う流れを作ることができます。俳句や川柳にもこの技法はありますし、今調べたら外国の詩にもあるみたいですね(知りませんでした)。「悪友」から引きます。

立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる

これは、

立ちながら/靴を履くとき/やや泳ぐ/その手のいっと/きの岸になる

というふうに、四句目と五句目で句跨りをしています。そうすることで、僕は相手の手が自分に触れている、触れて離れるまでの時間の流れを表現できる、またその動作自体を音で示せると考えて、句跨りをさせました。これは分かち書きをしていると難しいです。一行で表現した方が効果があるので、句跨りという技法を使いたい場合は行は分けない方がいいでしょう。

次の 「極端な字空け」 もそうです。字空けというのは全角スペース(空白)を入れることですね。半角スペースは一般的には使用されません。普通の「 」を 「一字空け」 といいます。二字空けの短歌もたまにありますが、時間の経過とか場面のズレみたいなものを表現するために使われている印象です。二字空けは「止めはしないが推奨もしない」といった位置の技法だと思います。

字空けには僕は大きく分けるとふたつ種類があると思っていて、それは

  1. 読解のための字空け
  2. 場面の切り替えのための字空け

です。

1. は、例えば「ゴーレム」から一首。

雨の屋根つらなるプラハ ゴーレムの崩れたあたりに僕は立ってる

これが、

雨の屋根つらなるプラハゴーレムの崩れたあたりに僕は立ってる

だと、一瞬 「”プラハゴーレム”……???」 となるかもしれません。つまり音では切れているんだけど、表記でぱっと見たときに別々の語なのに一語に見える。その後で読んでいけば「あ、別々の言葉か」と分かるのですが、読解に嫌なタイプのストレスがかかるので僕は一字空けにしました。例はカタカナですが、漢字が連なっていても同じです。下手すると、「この単語って何? まぁ自分が知らないだけか」と誤解されたまま(したまま)読解が進むことがあります。この歌でも

雨の屋根連なるプラハ ゴーレムの崩れたあたりに僕は立ってる

となっていたら、一瞬 「屋根連(やねれん)……?」 となるかもしれません。そんなことある!? と思うじゃないですか、(この例はアレですけど)結構あります。でも、「雨の屋根」のあとに一字空けをするのは意味が切れてしまう。あと「屋根連」のあたり、 全然かわいくない 。「屋根つらなる」の方が、かわいいですね。読解と見た目をとって「雨の屋根つらなるプラハ」の上の句にしました。

そうではない字空け、つまり②の 場面の切り替えのための字空け は多用、もしくは常用するとよくありません。「極端な字空け」は以下のような感じです。

すれ違う 手首の白い 春の果て 犬が傷つく 映画は観ない

う、うわぁ~~~!!! 音が切れることを表記でそこまで示してくれなくてもいいです。親切が裏目に出ている。『悪友』の中で僕が一番字空けをしているのはたぶん「名画座」の

雪柳 きみの死に目にあいたいよ ジャングルジムの影が傾いで

なのですが、なぜ

雪柳きみの死に目にあいたいよジャングルジムの影が傾いで

じゃないの? と言われると、

  • (そんなに多くはないと思うけど)「きみ」が「雪柳」のことだと思われたくなかったから
  • 字空けを設けることで影が傾いていくくらいの時間の経過を示したかったから
  • 「雪柳」のシーンと、「きみの死に目にあいたいと思う」のシーンと、「ジャングルジムの影が傾いでいく」シーンは全てカットが違うというか、違う方向のカメラから撮っているから

などの理由が挙げられます。これは後から書いているのですが、たぶん作った当時はそういうことを考えていただろうと。「海鳴りの語尾」では、

二人して遊んだ場所の色合いは変わった、けれど、そうだね変わった

という歌があり、これは読点(、)で区切っています。僕は 「意味の切れ」を強く出したいときは「字空け」、なんとなく繋がっているように見せたいときは「読点」 で使い分けをしています。

二人して遊んだ場所の色合いは変わった けれど そうだね変わった

としてもまぁ……いや、やっぱりよくないなぁという感じがします。読点の方が呼びかけている感じがするというか、言い淀む感じ、特に「けれど」あたりで逡巡するさまが表現できると思います。このへんの感覚は作ってみて好みを見つけた方がいいですね。句点区切りもあります。「名画座」の

笑うかも。眠れなかった夜のうちひとつをバスの隣で聞けば

なんかは、「読点よりは切れるんだけどな~」と思ったから句点で区切っていますね。つまりまとめると、「意味の切れ」が強い順に空白(字空け)≧句点>読点となると僕は判断し、使い分けをしています(※これは人によります)。

3つ目、 「動詞が多すぎる」 はそのままです。作らないようにしているので例が難しいですが、例えば即興で作ると、

きみが笑って走って来たらあげるためポカリを持って居る夏の午後

とか……いや下手ですみません。まぁこんな感じで、「笑う」・「走る」「来る」・「あげる」・「持つ」・「居る」と動詞が6つもあるんですね。 うるさい 。非常にうるさい。せわしなくて、状況の説明に追われている感じ。例えば「走って来たら」は複合動詞なので、「走ってきたら」と「来」を「き」と平仮名に直すだけで、動詞の感じが和らぎます。同じことが「持って居る」にもいえますね。ちょっとニュアンスが変わりますが、「居る」にこだわりがなければ、「持っている」にしてもいいでしょう。また、動詞を他の言葉でいえないか考えてもいい。「走る」を「急いで」にしたり、「持っている」を「(こちらへ向かってくる描写)きみへのポカリ」と体言止めにしたり。色々変えてみましょう。

最後です。 「呼び方がバラバラ」 。これは僕が「連作」(何か同じテーマやイメージのもとに作られたとされる歌の集まり。たいていタイトルがついている)を作るときに注意していることです。たとえば20首連作で、ふたりの人間の関わり合いが表現されていたとします。そのうちの7首に二人称が登場します。しかし、5首は「君」で2首は「あなた」でした。さて、この 「君」と「あなた」は同一人物なのでしょうか? 小学校の文章問題みたいになりましたね。というのは、本当に疑問だからです。一人の人間を「君」とも「あなた」とも呼ぶ人はいるでしょう。僕もそうすることはあります。ただ、短歌でそう作られていると、「わざわざそうされている」ように見える。つまり、 「書き分けがされている」と解釈される場合がある んです。「君」と「あなた」は別の人物ではないか? それぞれとどのような間柄なのか? と、余計な詮索が生まれます(実際、「君」と「あなた」を別の人物として、主要人物が三人の連作もあります)。ただ、「そうではない、別の人物が出てきていると思われると厄介だ」という場合には、 二人称を統一する か、せめて別の呼び方を1首だけにしましょう。『悪友』の「いつかの冬」には一連のなかで二人称が混在していますが、「これは分かるのでは?」と思ったし、その場に三人いても連作の読解に支障がないだろう、と判断したためです。余談ですが、二人称は例えば20首連作なら10超えると相当圧が強くなるので、二人称を出さなくても表現できるなら削ってもいいでしょう。二人称の話をしましたが、一人称についてもそうですね……。登場人物の視点が切り替わるミステリみたいな構造を目指しているのでないのなら、同一人物をさすならば、 人称統一はした方が読んでほしい方向に読んでもらえる確率が上がります

「推しが尊い」を短歌でどう表現する?

推し、尊いですよね。 じゃあ、どうやったら推しの良さを表現できるんでしょう? オタク界隈ではそのキャラや作品に虜になってしまった状態を「沼(に沈む)」、言葉にならない叫びを「悲鳴」みたいに呼びますが、オタクの使う単語って基本的に ジャーゴン なんですね。「外」の人が見ても、全然わからない。Twitterや内輪でのオフ会ならOKですし、むしろ楽しい! でも、どうせ短歌にするなら、推しのよさが伝わるものを作ってみませんか。

作り方の例を挙げますね。ハイキュー‼︎から着想を得た「さらば楽園」という連作から1首引きます。

木兎光太郎
君の眼が初めて熾す火のようでビブスの裾をかたく絞った

※「木兎光太郎」は詞書(短歌の前につける状況説明みたいなものです。旅行の短歌だと「○○(地名)にて」とか。

さて、この歌の作り方はこうです。

①「木兎さん尊(とうて)ぇ~~~!!!」という気持ちが湧いてくる

→どの巻のどのシーンとは言いませんが、「木兎さぁん!!!」となってしまった(ハイキューで推しは複数人いますが、木兎さんと西谷さんを見ると必ずそっちを見てしまう。とにかく華があると思う)。

②「何が尊いか? どう尊いか?」を考える

「全部」とかすぐに言わない 。全部なんだけどよ……。その中でも! どこを見たのか! 何を聴いたのか! 考えてみましょう。僕は木兎さんの 「目」 を見て、「ああなんて強い瞳なのだろう、彼の情熱的でどこまでも人を引っ張りあげてしまう性格を表しているかのようだ」と思ったようです。

③「木兎さんの目はどのようだ、と言えば、それが伝わるか?」を考える

→「情熱的」と思ったこともあり、 「炎のようだ」 と思う。

→では、 どんな「炎」か? また、「炎」でいいのか?表記は 「ほのお」 なのか、 「焔」 なのか。

→単純に 「火」 と言ってもいいかもしれない。では、どんな「火」か? 身近なコンロの火、あたたかい焚火、全て燃やし尽くすかのような業火……いろんな「火」がある。 どれが一番、自分が感じた彼に適しているだろう?

→見慣れたものじゃない。見た瞬間畏れを抱くような、それでも心が求めていたものはこれだと思うようなもの。 「初めて熾す火」 にしよう。

④上の句が決まる

→「君の眼が初めて熾す火のようで」。「目」より「眼」の方がより「瞳」に近い感じがして 漢字の表記を変更 しました。「瞳(ひとみ)」だと3音になってしまうため 音数を節約 。「瞳(め)」と読ませるのはちょっとやりすぎかな?ということで「眼」に。「君」も「きみ」と平仮名にする選択肢もありますが、「きみ」だとちょっとたどたどしいというか、 この歌では甘い感じがするので 漢字で引き締めてみます。

⑤下の句を決める

→「木兎さんの眼を見て、人はどうなるか、その場はどうなるか、何か変化があるか」を考えます。僕は正直ビビったし、同時に、奮い立ちました。でも、部外者が感じる「畏れ」や「奮い立つ気持ち」よりも、もっと木兎さんの凄さを実感できる立場に視点を譲りたいな、という気持ちになりました。つまり、チームメイトの赤葦くんや木葉さんや、バレーをよく知っているキャラクター、または、スポーツに打ち込んでいる他の運動部の人間でもいい。通行人Aが見ても木兎さんはスターかもしれない。でも、「なんとなくすごい」ではなく、彼の挑む姿に感情を持っていかれてしまう人物から見た歌にしたい。そこで、「ビブス」を登場させ運動に関わる人間であることを示唆し、「裾をかたく絞った」とすることで、「絞れるほど汗をかいている」「裾をぎゅっと持たねば耐えられないほど、なんらかの感情が溢れている」ととれるような表現にしました。

作り方を解体するとこうなります。この歌がいい歌なのか悪い歌なのかという話は別にあります(例えば「初めて熾す」が「弱々しい」と捉えられるおそれがある、など)。でも僕は歌集に入れたかったし、だから入れました。

一連にある、

補えばいいということでもなくてあなたはあなたの指揮する曲だ

は、「影山と菅原さん」をイメージして作って月詠(短歌の結社(グループ)に1ヶ月に一度提出する歌)に出したものでした。

補えばいいといふことでもなくてあなたはあなたの指揮する曲だ

当時は口語旧仮名だったのでこうでした。でもこれは、影山くんと菅原さんだけの話ではなく、及川さん、研磨や赤葦くん、他のセッターの歌にもなり得るよなぁ、と後で思ったんですね。説明がなければ、ハイキューの一連にある以上、キャプテンや監督のことをイメージした歌だともとれると思います。僕は歌集にまとめる際に、わざわざ詞書をつけてイメージを固定しなくていいだろうと思い、載っている通りの形にしています。

語彙を喪失……するな!

オタクは語彙を喪失しがちですが、短歌で初句を「ほんま無理」にしてもいい歌になるかは微妙です(やったことがないので分かりませんが)。前の項で書いたように、まずは「尊ぇ~~~」から始まっても、そこを突き詰めていけば、短歌はだんだんと形になってきます。でも、知らない言葉は語れません。綺麗だなと思った色、面白いなと思った地名、興味深かった看板、珍しいなと思った言い回し、響きが気に入った単語……なんでもメモしてみましょう。いつか見返したとき、ああこれは今短歌にしたい感覚にぴったりだ、と思えるかもしれません。普段からいろいろなことにアンテナを伸ばしておくと、時に思いも寄らない化学反応が起きます。「戯れに花」に、

ゆるせなくていいよ、このまま区境(くざかい)を越える僕らの傍らに雪

という歌がありますが、この「区境」は以前タモリさんが出ていたなんかの番組で目にした単語です。僕は地方生まれなので区に馴染みがなかったのですが、そんなものがあるんだ~へぇ~と思って覚えておいたんですね。

「幽霊とスノードーム」の

夕暮れる前の駅舎で花を買うダリアン暦にも閏はあって

も、単語(「ダリアン暦」)から作った歌です。Wikipediaや辞書、歳時記を暇なときにぼーっと眺めるだけでも、作れる歌の幅が違ってくると思います。

表記を気にしてみる

書いてきたように、音は同じでも「漢字」と「平仮名」を分けることも表現において大事なことです。歌の雰囲気に合わせて単語の表記をかえてみましょう。短歌は思ったよりも自由で、()や「」といった記号を使うこともできます。()は僕はBGMや心の中の発話のように使うことがありますし、「」は一首全体にかけると誰かのセリフのようになって、ちょっと意味深な歌になります(それがどのようなシーンで言われたか、それを言われてどう思ったのか、などの説明が全て宙に浮くので)。

折句

二次創作短歌において忘れてはならないのが「折句」です。簡単に言うと『伊勢物語』の「かきつばた」(からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ)ですね。あいうえお作文みたいなやつです。 ちなみに僕は下手なので、折句がうまい笠木拓さんの短歌を貼ります。

連理の枝(え)ごくなだらかに今日を継ぎ、樹下におまえの老師となろう
れん りのえ/ ごく なだらかに/ きょう をつぎ/ じゅ かにおまえの/ ろう しとなろう

………… 煉獄杏寿郎 さん!!!!!!!!!!!!!! どうですか? 煉獄さんを折句にするのは相当難しいと思っていましたが、この完成度……。折句にするときにパーソナリティや特徴が入るとよりそれっぽくなるのですが、やりすぎてもよくないです。煉獄さんという人物と「連理」・「継ぐ」・「(老)師」という単語の調和がとれていますし、そもそも「連理」・「樹下」・「老師」といった単語を知っていて使える、というのは本当にすごいことです……。「語彙を喪失……するな!」でも書きましたが、単語の数というのはこういうときに活きてくるんですね。ちなみに元ツイはこちらです。

別に頼まれているわけじゃないのですが宣伝すると、笠木拓さんの歌集『はるかカーテンコールまで』はとてもよい歌集なのでぜひ。Amazonはこちら。僕も参加している同人遠泳のnoteはこちら(創刊号、2号を通販中)。

おたよりのコーナー

これは僕が「二次創作短歌の作り方の目次」みたいなツイートをして、そのRT先で「これも知りたい」と言われていたのを「おたより」として解決していこうという特に頼まれたわけではないコーナーです。

1. 口語と文語をどう行き来するか

「行き来」がどういったことを示しているかピンと来ていないのですが、 基本的に連作や本にまとめたときには混ざっていない方がいい と思います。作りやすい方で作る、或いは確固たる拘りがあってそっちで作る、というのは普通かなぁ……と思うので、文体が混ざっていると、「何か特別な意図があるのかな?」と考えてしまうんですね。読み手にとってノイズになっちゃう。ただ、例えば文語で話すキャラがいる(?)とか、文語であらわされた書物の中の人物と対話する、或いは書物の中の一行と主体の感慨が交互にやってくる、みたいな形式をやりたい場合はそれらは混ざると思います(その試みが面白いかは歌の出来によります)。文語で作った方がカッコイイからこの歌は文語、口語での気安さを出したいからこの歌は口語、というのがまぜこぜになると読みづらいです。「文語のカッコよさ」を「口語」でできないのか、「口語の気安さ」を「文語」でできないのか、それをまず追求してみてください。また、「口語で旧仮名遣い」という書き方のひともいます(「○○と思つたけれど~」とか)。僕も一時期、数年間はそれでやっていましたが、歌集にまとめる際に「口語で現代仮名遣い」に統一しました。どのスタイルが自分に合うか、自分が目指す短歌にしっくりくるか、試してみてもいいと思います。

2. 絶対にやってはいけないルールは何

なんだろう……。「二次創作短歌でやってはいけないこと」は、「二次創作でやってはいけないこと」と「短歌でやってはいけないこと」の総体だと思うのですが、前者はともかく(そもそもジャンルによっても違いますし)後者はあまり聞いたことがないですね。やらない方がいい、やるべきではない、みたいな話は聞きます。「やらない方がいいこと」は技術面の話が多くて、「これやめてみるといいかも」の項で書いたことなどです。「やるべきではないこと」は、簡単に言うと差別表現? でもこれは短歌のルールじゃなくて、生活のルールですよね……。あと、これは常識なんですけど、盗作です。盗作はダメ。でも二次創作短歌を作るときに、原作のエッセンスは入れますよね。台詞とか、キャラクターの特徴とか。それはどこまでOKなのか。例えば原作にあったセリフがたまたま31音だった。それを(自分の)短歌として出す。これはダメ。「さらば楽園」の、

立つ鳥が跡を濁さぬ寂しさを肯う昼よ さらば楽園

は詞書にもある通り、天童覚の歌であり、彼が言ったセリフを基に作られています。また、彼が「高校でバレー辞める」とはっきり言ったことなどを受けて、「立つ鳥跡を濁さず」の慣用句を引っ張ってきました。白鳥沢だし……。だからこの歌は、慣用句と原作のセリフ軸として、それに肉付けしてできました。慣用句はともかく、セリフが一首の大半(上の句や下の句)を占めていると、それを自作として出すのは危ない気がします。明確にアウト/セーフを示せなくてすみません。また、「原作を読めば深みが増す二次創作短歌」は、「原作を読まなければ意味が通らない二次創作短歌」とは違います。それが何も知らない人が読んでも優れていると思う短歌の方がいい。原作のエッセンスを継ぎ接ぎして1首の形にしたものではなく、原作から受け取ったものを自分で咀嚼して、言葉を再構築して、推敲を重ねた末に手に入れることができるものです。僕はこの歌について「原作読んでないと意味が分かりませんね」と言われていたので(エゴサ)、まだまだだなと思いました……。

物語るという暴力

最後の項目です。「推し」という言葉がここ数年でにわかに浸透してきたと思います。頑張る他者を見て自分も勇気を貰ったり、他者の活動を日々の生きがいにすることは、一概に悪ではない、はずです。でも、誰かを見てその人に勇気づけられたところで、それはその人が故意でも偶然でも、そのときに見せた姿でしかない。それを、こちらで自分の都合のいいように受け取っているだけなんです。その人はただ生きているだけ。「推す」ことは、その人を象った偶像を崇めること。『悪友』のあとがきにも記しましたが、いわゆる「推し」に勝手に救われることでさえ、消費し、傷つけることとどう違うのか……それはほとんど同義じゃないか、と思います。「愛しているから」という理由で他者の行動を制限したり、何かを強要することは暴力です。それと同じように、「推しているから」という理由で他者に何か求めることはできません。できないはずです。それでも、僕には「推し」がいて、その人たちがいつまでも平穏であることを、或いは、喧騒のなかでもその人たちらしく居られることを願ってしまうんです。それが、「推し」たちを脅かすおそれがあると分かっていながら。僕が短歌を作るのは、そういう加害性から、少しでも離れるために、相手に向いている矢印をすこしでも自分のものとして引き受けるためでもあるかもしれません。相手を語ることは暴力だけれど、その「語り方」を考えることはできます。他者と関わらないことなんてできないから、関わり方を考え、そして変えることはできます。創作は独りよがりでしかなく、醜い欲望が溢れているかもしれません。短歌は免罪符なんかじゃありません。推しを思って作った短歌は、推しの為になることはないでしょう。それでも、自分の欲望を自分で見極められる方法のひとつが、僕にとって短歌で、できるならうまく作りたい、心が震える歌を作りたい。今はそう思います。

「二次創作短歌を作ってみよう」の記事は、これで以上です。思ったより長くなりました。

最後にちゃっかり宣伝しますが、僕の二次創作短歌(ハイキュー、映画「ダンケルク」、漫画・アニメ「血界戦線」、漫画「おおきく振りかぶって」)が入った歌集『悪友』の版元のページと、Amazonのリンクです。歌もさることながらハタ屋さんの表紙がとても格好よいのでぜひジャケ買いしてください。あとは歌集出版以降の作品を載せた橋爪志保さんとの同人誌「短歌の世」は通販もしております。よろしくお願いします!

以上です。読んでくださった方が、「推し」のどこがどんなふうに好きなのかを真剣に考え、言葉で捉え直し、二次創作短歌を作ってくださったら嬉しいなと思います。