「関係性短歌」の王 松野志保『われらの狩りの掟』

はじめに

2021年4月、ふらんす堂から美しい歌集が刊行された。松野志保『われらの狩りの掟』である。僕がこの書籍の情報を見たのはTwitterで、その装幀と帯に書かれた歌・あとがきを見て書店で購入した。

ウェルニッケ野に火を放てそののちの焦土をわれらはるばると征く

私にとって歌とはずっと、失われたもの、決して手に入らないものへの思いを注ぎ込む器だった。それが、この歌集を手に取ってくださった人が抱え持つ喪失や希求と響きあうことがあればと願うのみである。(あとがきより)

松野さんにより自選五首は以下の通り。

無傷であることに傷つく葉桜の下あたらしい帽子を被り
光年という距離を知りそれさえも永遠にほど遠いと知った
奈落その深さをはかりつつ落ちてゆくくれないの椿一輪
ハーブティーにとかすはちみつひと匙の慈悲それで人は生きられるのに
みなそこのさくらよさくら海が陸はげしく侵し尽くした春の

僕は松野さんの第一歌集『モイラの裔』(2022年、洋々社)も第二歌集『Too Young To Die』(2007年 風媒社)も持っておらず、2003年から2015年まで松野さんが参加されていた同人誌「Es」も確認できていないので、まとまった作品を読むのはほぼ初めてだった。

いま断言できることがあるとすれば、この歌集は「関係性短歌」の王座に就くものだということだ。

関係性短歌とは

いきなり出した単語だが、これは僕(の周り)から出た造語で、Twitterで検索してみても僕あたりが2020年の春あたりに使い始めた以降、「そういう言葉があるらしい」と思った人たちが使い出しているようだった。もっと前から存在したのかもしれないが、2020年より前に短歌の評の場では聞いたことがない。

これと似たような範囲を指す語に「相聞」がある。 もともとは万葉集で、雑歌ぞうか挽歌ばんかと同じ、ジャンルの名称だ。 家族や友人、恋人など親しい間柄で贈答された歌が含まれる。特に恋の歌が多いためか、僕は昔出た歌会で「相聞」をほとんど「恋歌」の意味で使っている人を見た。「相聞」はかなり大きな範囲を指すし、人によって解釈が異なるように思えた。また、「相聞」は本来の定義では相手とやりとりした歌を指すようだが、現代では二者間の歌の贈答をあまり見ない。している人はいるのかもしれないけれど。相手が実在しようがしまいが、一人で歌を作っている。そこで、「相聞」からより範囲を絞り、自分だけの感情が歌われていようともそこに〈他者〉を見た、と感じる歌を「関係性短歌」と呼ぶことにした。これは僕の観測範囲から出された結果だが、思い込みの激しい「友情」、強い「憎悪」や行き過ぎた「忠誠心」は世間が指す「恋愛」とほとんど区別がつかない。だがそれが表現された歌を「恋歌」と呼ぶのか? この混沌とした議論を一時的に保留する、それが、〈「関係性短歌」と名指す〉ことなのである。

ちなみに今DMを確認すると、歌人の鳥居めぐみさん(Xemono社の社長)が「関係性短歌連作全国大会で優勝してほしい」と送ってきてくださったのが2020年5月10日で、それ以前の僕のTwitter上での発言は確認できないため、鳥居さん由来かもしれない。ちなみに「関係性短歌連作全国大会」というものは存在しない。

補足:前川佐美雄の関係性短歌
僕は「関係性俳句」・「関係性川柳」も存在すると思っていて、Twitterにまとめているのでご興味のある方は検索してみてください。

関係性短歌以外

『われらの狩りの掟』には関係性短歌の歌しかないかというと、全く違う。あとがきにはこうある。

第二歌集を出して以降、「BL(ボーイズラブ)」というキーワードとともに作品を紹介していただく機会が何度かあった。そうした視点やモチーフが私にとって重要であるのは間違いなく、一方で、できあがった歌にどれほど反映されているのか自身ではよくわからず、それをそのように読み解き、楽しんでもらえるのはありがたいことだと思う。
同時に、私の歌を読むのにBLに関する知識は必要なしい、BLとして読むことを強制するものではないということも書き添えておきたい。

このように、この歌集は「関係性」だとか「BL」とかと非常に相性がいいが、そのように読むべきだとかそのようにしか読めないといったことはない。ちなみにこの続きの文章の一部が、最初に書いた、帯に抜粋されているあとがきである。

歌集は543首が4部によって構成されており、タイトルだけでも「長くて短いゆうぐれに」・「われらの狩りの掟」・「この世の果ての渚」(Ⅰより)、「放蕩娘の帰還」・「たそがれの国の植物図鑑」(Ⅱより)、「封鎖都市、希望ラヂオ、午前二時」・「百鬼夜行のいちばんうしろ」・「死せる魔王のためのパヴァーヌ」(Ⅲより)、「綺麗事」・「そして黎明に至る」(Ⅳより)など、美しい言葉が並ぶ。気になったところからでも読んでみていただきたい。

僕が「関係性」以外で惹かれた歌を5首引用する。

硝煙の染み込んだ革手袋で涙ぬぐわれようともひとり
/「われらの狩りの掟」

硝煙とは火薬の発火によって生じるものだ。一首目の「武器」の語から大砲などによるものかもしれないが、連作内に「撃つ」や「弾丸」の語があるため、僕は硝煙は銃によって生じたものだと考えている。そんな火薬のにおいがする革手袋で、主体は涙をぬぐわれている。人の涙をぬぐってやるのは、基本的には慈愛の行為であり、敵対していたり無関心であったりすればそんなことはしない。どちらかといえば味方の人間がすることだ。もっといえば、硝煙が生じた行為(発砲)は、対象が動物であれ人であれ、主体の為であり、主体を生かす行為かもしれない。「われらの狩りの掟」というタイトルなので猟だとすれば対象は動物だが、18首目(「あしたには~」)では「狩られる」ことの示唆もあるため、「狩り」が猟を指すのか比喩なのか断言しづらい。とにかく、そんな味方と思われる存在に「涙ぬぐわれようともひとり」。相手と一つにならず、なれない。

奈落その深さをはかりつつ落ちてゆくくれないの椿一輪
/「われらの狩りの掟」

奈落とは仏教における地獄のことだが、地獄の深さというとかなり果てしないように思う。椿は花がそのまま落ちるので、昔から首を連想されてきた。この「くれないの椿一輪」も、どうしても肉体から切り離された首のイメージを持つし、上記の歌と同じ連作にあることから、孤独であらざるを得ない一人の人間(僕は主体だと解釈する)が浮かんでくる。しかしその次にある歌では隣にいる「他者」があり、僕は「地獄の底で笑い合う二人」を見た。

全然「関係性以外」じゃないことに気付いてしまった。章立てが全く機能していない。

荒天に釘ひとつ打つ帰らざる死者の上着をかけておくため
/「終わりのある幸福な時間」

「終わりのある幸福な時間」という、内容によっては陳腐にしかならないタイトルの連作は、この一首から始まる。このスケールの大きさに圧倒される。「帰らざる」と知りながらも上着をかけるのは、弔いや願いというよりは自己満足に近いが、その自己満足を「荒天」に行える強さ・揺ぎなさが、この一首をそのまま屹立させる。僕はこの歌を「荒天(の日、の下)に」ではなく、「荒天(そのもの、そういった天候の空)に」というように読んでいる。「夜の帳が下りる」という言葉を言うとき、(比喩にしても)本来はありえない大きさの垂れ絹が下りて来る景があるように、この歌では本来はありえない大きさの釘が撃ち込まれるような感じがする。服部真里子さんの

冷たいね 空に金具があるのならそれに触ってきた表情だ

という歌を思い出したが、空へ手を向けるダイナミックさが、松野さんの歌では比喩ではなく本当にそうしたかのように見えてくる。

どうしてもフェリクス=ユーゴ=フラルダリウスの歌に見える。

無傷であることに傷つく葉桜の下あたらしい帽子を被り
/「綺麗事」

みずからの手で荊冠を戴いて始める刑期のごとき治世を
/「花刑」

どうしても(傷つき傷つけた果てに、贖罪のために、王国のために、民の未来のために、再びアラドヴァルと共に歩み始めた)ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドの歌に見える。

「関係性」があるのかもしれないが(「愛」が具体的に見えてこなかったり(概念?)、「僕ら」の像がうまく結べなかったため)特に次の二首は「関係性短歌」に含めていないが、好きな歌である。

パンケーキに滲みるシロップ何よりもまず君は愛に耐えねばならぬ
/「長くて短いゆうぐれに」

回転木馬の馬車に座すとき悪評も僕らを飾る貴石のひとつ
/「無垢とカンバス」

関係性短歌

松野さんはツイートで、「第3歌集は二次創作としてはテニプリ、BASARA、金カムあたりの成分が多め」であることを明かしている(※ここでも元ネタ関係なく好きに読んでほしいと書かれている)。僕はテニプリは初期?しか知らず、テニミュはDVDを三枚貸されたので見たことがある。ちなみに好きなキャラは不二先輩と宍戸さん(と鳳くん)である(友人たちに「(開眼を滅多にしない強キャラを好きになるのが)分かりやすすぎる」、「(宍戸さんと鳳くんの組み合わせについて)まるで笠松先輩と黄瀬くんではないか」などと口々に言われた)。BASARAは履修する機会を逃した(おそらく当時受験期だったため、ほとんどアニメや漫画を見ていなかった。ニコ動は見ていた)。金カムとは現在なんと全話無料公開中の「ゴールデンカムイ」のことである。野田サトル先生のバトルありグルメあり、歴史好きとしても楽しめる漫画である。恋愛描写は存在するが基本的に合意であり、恋愛における被害がある場合、それをよしとしない描写が存在する。ちなみに主人公は二十代前半の武力がカンストした男性(杉元佐一、「不死身の杉元」)で、彼とある理由で手を組むのはアイヌの少女(アシリパさん)だが、杉元はアシリパさんを大人として守ろうとするし、我々が創作物に接する際にハラハラしてしまうような心配事は今のところないと言っていい。人や動物が死ぬ描写はあるので、苦手な方はその点に注意していただきたい。

話が逸れた。

ひとなつをレモンとレモン絞り器のように過ごして別れゆくのみ
/「長くて短いゆうぐれに」

「ひとなつ」の関係を描いた作品はこの世に星の数ほどある(例えば僕の心をズタズタにした「君の名前で僕を呼んで」。人びとは「ひとなつ」という短い期間ゆえに、焦りや説明不足による誤解が生じ、時に物事をまとめあげようとするための嘘をつく。「レモン」と「レモンの絞り器」はお互い無傷ではいられない。「レモン」は「絞り器」の形にえぐれるし、「絞り器」にはレモンの汁やにおい、種といったものが残り、底に溜まる。しかし「ひとなつ」の物語の結末はどれも似ていて、「別れゆくのみ」なのだ。人びとは「レモン」のにおいを爽やかで清潔感があるものと考えがちだが、この歌における「レモン」はそういった存在ではない。「レモン」が残したものはそれだけではなかなか飲み下せない。同じような関係性の歌として、歌集には

同じ花見上げるたったそれだけの縁を結び別れゆく午後
/「桜のある風景」

などがある。

遠花火ふたり見たこと懸命にこころをひらくまいとしたこと
/「終わりのある幸福な時間」

花火のシーンで普段言えないことを言う、或いは言おうとする、打ち明けようとするのは(主に恋愛漫画で)よくあることである。しかし、この歌では告げることに懸命になっているのではない。「こころをひらくまい」としたのだ。遠くに輝く花火をふたりで見た。無言だったのか会話があったのか分からないが、何かを打ち明けたくなかったし、打ち解けたくはなかった。これが持論だが、相手に何かしたいとか、相手と何かをしたいと思う外向的な関係への願望よりも、相手に何かをしたくないとか、相手と何かをしたくないという内向的な考えの方が、抑圧されている分拗れやすく、個性が出る。或いは時に人格を歪ませる。その歪みが僕は見たい。遠花火という美しい風景を前に、「こころをひらくまい」とした。それも「懸命に」。その抵抗を見たとき、僕は笑みがこぼれたし、フェリクス=ユーゴ=フラルダリウス……と思った。

死ねと言えば死ぬ一人いちにんを従えて行けばいつしかあの世の花野
/「旗幟鮮明」

個人的にこの連作と「封鎖都市、希望ラヂオ、午前二時」は金カムを思わせる。初読ではこの連作はFE風花雪月でも読めると思った。つまり軍と戦いとか、そういったものに近い創作物と相性がいいということだ。具体的にいえば第七師団の鶴見中尉周辺の連作として読むと非常にしっくりくる。「死ね」と言うのは上官(鶴見)であり、その鶴の一声によって「死ぬ」のは部下である。「一人ひとり」ではなく「一人いちにん」であることが、彼の命で命を落とす人間は多数いるが、そのうちの存在のひとつが残り、いつか共に「あの世の花野」にまで到ることを示すかのようだ。「花野」は主に秋草の野のことなので、春の野よりも落ち着いていて少しさみしげな感じがする。荷風に、

極楽に行く人送る花野かな

という句があるように、死んでからの場所と花野は頭の中で地続きになりやすいのかもしれない。

カンバスに裂け目を入れること黒く塗ることそれを愛と呼ぶこと
/「無垢とカンバス」

カンバスは、絵具を用いて描かれる支持体。作品によっては削られたり裏地に描かれたりするが、それは作品としての効果を狙ってのことだ。この歌では「裂け目を入れ」られたり、「黒く塗」られたりするが、それは作品のためではない。本来ならば作品を台無しにするときにとる手段だ。この歌の「裂け目」は絵の一部ではなくかなり大きなものだろうし、「黒く塗る」のは一部ではなく全体を塗りつぶす、或いは絵にとって肝要な部分を見えなくしてしまうことだろう。そうした行為を、「愛と呼ぶ」。愛は一般的に「やさしさ」・「甘さ」・「あたたかさ」などを寛容に包み込む概念だが、その寛容さゆえに暴力性をも含む。この歌集ではそうした面も削り取って見せてくれる。

ゆびさきの花火の匂い嗅ぎあって僕ら健全ではいられない
/「Parade must go on」

奇しくも最初に引用した歌と同じく、火薬のにおいがする歌で終わろうとしている。「○○し合う」という相互の運動性が短歌に含まれたとき、その短歌は「関係性」から逃れることはできない。ゆびさきという、ものに触れる場所、肉体の先端について匂いを嗅ぎあうとき、「健全ではいられない」と言われなくともそこに妖しい近しさ、親しさが宿ってしまう。そして「僕ら健全ではいられない」という断言の自覚が印のように捺され、この歌は花火のように一瞬で、けれど匂いや記憶が後々まで残るものを、我々の脳に焼き付かせることに成功する。

おわりに

歌集に笑えるくらい付箋がついてしまい、数をしぼるのに苦労した。僕自身、「関係性」を読み取るのがとても好きな人間であるため、僕が『われらの狩りの掟』について書き残しておかないのは〈嘘〉……という気持ちになったのでこうしてブログを書いた。少し高いな、と思われる方がいるかもしれないが(この世にある歌集はだいたい高いが)、装幀と内容を含め、その価値は十分にある。ご興味のある方はぜひ買って読んでみてください。