『悪友』2周年記念スペース(高島鈴さん10首選)

『悪友』2周年記念スペース

第一歌集『悪友』刊行2周年を記念して、スペースを開催しました。告知ツイートはこちらで、アーカイブも残しました。2時間半ありますが、ぜひ聴いてみてください!

授賞式もコロナが原因で流れ、直接感想をいただく機会が今まで本当になかったのですが、今回こうしてオンラインで楽しい企画ができて、とても嬉しかったです。

作者の10首選の画像ツイートとはこちらです。

駅で抱き合うひとびとのあらすじのねじれの位置を運ばれてゆく
/「名画座」

立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる
/「悪友」

悪友がくれたオレンジ色のガム一生分嚙みホームで捨てる
/「悪友」

もたれていたガードレールの粉はらい白夜みたいに笑ってくれた
/「はためく」

束の間の寿命がのびる 有線にあなたが諳んじた春の歌
/「飛び級」

ゆるせなくていいよ、このまま区境《くざかい》を越える僕らの傍らに雪
/「戯れに花」

祝福を 花野にいるということは去るときすらも花を踏むこと
/「猫はどこへ行く」

魂に骨があったらいいのにね。焼け残ったらお守りにする
/「虹を」

スノードームに雪を降らせてその奥のあなたが話すあなたの故郷
/「幽霊とスノードーム」

譲られた椅子に座って床にいるきみと映画を 同じ映画を
/「生前」

高島鈴さん10首選

高島鈴さんが10首選してくださいました。画像ツイートはこちらです。

鉢合わせしようよ転生ののちに孔雀と螺子になったときには
/「悪友」

→孔雀と螺子がいったいいつどこで出会えるのだろうか? どこかの掃除嫌いな金持ちの家の裏庭の片隅? 孔雀の住む森を電気技師が通り抜けていったとき? いずれも想像することはできるけれども、実現しそうにないシチュエーションではある。その薄い可能性に転生後の再会という極めて必然性のありそうな現象を預けてしまうところにこの歌の愛嬌があって、それがとても愛おしい。来世を冗談半分に投げ合える関係性を、悪友と呼ぶのかもしれない。

はためきは誰のためでもない僕の裾を掴んで僕が泣くこと
/「はためく」

→窓を通り抜けて風が入ってくる、そうして自分の服が膨らむ。なんでもないことではある。だが風は自力で止められるものではない。下句では服の裾を掴んで泣く行為に「僕」が二度付加され、自分ひとりの行為であることが強調される。どこにでもあるようなこと、だが自分にはどうしようもないことに深く傷ついた人が、せめて行使しうる孤独によって立つときの高潔さを詠んだ歌に見える。

大規模に塗り直されたパチンコ屋きみがふざけるため街はある
/「はためく」

→「悪友」には街の歌が多い。中でも最も好きなのがこの一首である。パチンコ屋の塗装に街の住人が口出しすることはできない(よく考えると住人なのに街のことに口を出せないのはなぜなのか?とも思う)。だがその偶然も、相手が冗談を言うためだけに用意された作為であるとこの歌は言い切る。街の全ての風景、その意味を相手に捧げてしまえるような、危なっかしいが明るく愛おしい関係性の歌で、「はためく」は終わる。

月からは見えない石階にふたり 友を打つため花束はある
/「戯れに花」

→月に見つからない場所、と言うと、その石階は悪い秘密を共有するための親密な空間であるような響きを持つ。それは「悪友」にも通ずる関係性によって空間の意味が変異した結果として顕現したものなのだろう。そのような空間に気まぐれに投げ込まれた花束の用途が、心を込めてゆっくり差し出されるものではなく、「友を打つため」であるのは当然である、という強い納得が胸に残る。

欲しがってくださいあらゆる避雷針抜けて轟くような祝いを
/「猫はどこへ行く」

→「欲しがってください」という唐突で稀な要求がまず降ってくる。ここですでに相手が何か巨大なものをすでに抱えているのだとわかる。そしてその正体は雷のような破壊をともなった祝福であるのだという。それは果たして本当に祝福なのだろうか? 「祝い」という言葉が「呪い」に極めて似ているという無言の指摘に、読者はすぐに気がつくだろう。人が生きるうちに抱え込み、昇華できずに溜まってゆく澱みと、それを他者に向けようとする仕草に、興奮と恐怖を想起した。

誰になら看取られる気がありますか 塩の瓶ならいつもの棚に
/「由来」

→第二歌集「セーブデータ」に「心中をしなかったのは偶然で、バターは必要なときにない」という歌があるが、それに類する歌であると思う。いつもの棚に置かれた塩の瓶、というごく日常的な風景の手前に、自らの死を想像せよと迫る緊張を帯びた切な問いかけが置かれている。詰まるところ死とは、生の汀に口を開けて待っているごく平凡な穴なのだ。死の手前にあるものとしての生を歌に詠み続けている榊原紘という歌人の魅力がよくあらわれた歌であると思う。

似合わない花を降らせて手向けたい ごらんよ朝焼けに沈む街
/「強くてニューゲーム」

→似合わないとわかっている花をあえて手向けにしたいとこの歌は言う。前述の花束の歌に見られるように、この歌の花も何か悪いものを共有する関係を示唆するような不穏さを帯びる。それを裏付けるように、朝焼けに包まれた街は開けていくような明るさで想起されずに、光に「沈む」ものとして示されている。朝が来なければいいのに、という想像力は生を手放そうとする/世界を滅ぼしたがっている人の抱える自己テロルであるが、そこにせめて暗い気持ちを分かち合う者として花を渡そうとする人がいるのは、確かな希望であった。

恨まれるこころづもりはできていて、でも窓辺から共に陽を見た
/「でも窓辺から」

→こころづもり、というひらがなはなんともかわいらしくまるまるとしているが、その響きが含んでいるのは恨みを向けられる可能性である。恨まれるだろうという想像が静かに立ち上がる一方で、共に太陽を望んだ経験が示される。なんでもないことかもしれない、だが同じ光を浴びたことがあるという事実だけははっきりと残り、これからやってくるであろう断絶の予感の前に、弱くやわらかく立ち塞がっている。

魂に討ち入るときは靴を脱ぐ海でそうするようにしずかに
/「幽霊とスノードーム」

→海で靴を脱ぐ人を見つめていたことがある。私はそのとき足を半歩前に出していたが、その足は相手がそのまま海に入っていった場合に走って引き止めるためだった。この歌の「海で靴を脱ぐ」行為は明らかに入水のそれであり、相手の魂に討ち入りをかけるという重大な領域侵犯に際して、自らも心中を予期するような深い覚悟が見える。その覚悟の重さに対して、下句はひらがなが穏やかに続いており、まるでさっき人が入っていったことを知らないかのように打ち寄せては引いていく波のようである。

楽になってほしいだなんて 憎しみの眼窩に嵌まる月をください
/「生前」

→憎しみは死に近い感情であるが、死に近づいている人を前にして言える言葉は極めて少ない。ましてや楽になってほしい、などと、本当にそう思っているからこそそれが相手ではなく自分を楽にするための言葉であるのは明らかだろう。相手のにえたぎるような暗い憎しみに対して、せめて自分ができるのはそこに嵌まる月の光を求めることで、それは詰まるところ、無力でも無意味ではない祈りを指している。

生き直す

歌集を出してから、どこまで・どんなふうに受け取っていただけたのか分からないことも多くて、というか分かるときのほうが少なくて、そのうち絶版になるだろう本が、その中の歌は消えていくしかないのかなぁと思うばかりでした。けれど、評をいただけると、ああこうやって歌は生き直すことができるのだと感じます。自ら立ち上げたお祝いの計画でしたが、自分が一番嬉しい時間になったと思います。高島さんや聴いてくださった方々のおかげで、『悪友』がまた違った一面を見せてくれたと感じました。

改めて、高島さんはもっと(短歌の)評のお仕事がきてもいいのではないかと思いました。これをご覧になっている責任者の方はぜひ本気でご検討ください!

そして、同人「遠泳」メンバーが、『悪友』刊行当初に計画してくれた「デジタル栞文」もありますので、また読んでいただければと思います。

『悪友』は刊行2周年となりました。今後も『悪友』が広く、深く、新しく読まれることを楽しみにしています。評やご感想をハッシュタグであったり、編集部宛のお手紙で送ってくださったら本当に嬉しいです。よろしくお願いいたします。

8月24日から始まるゆにここさんでの「推しと短歌 おかわりっ!」や、今いただいている原稿依頼を頑張っていきたいです。次の歌集に向けてお金も貯めたいので、お仕事をお待ちしております!