瓦礫をどかして(『ゲゲゲの謎』感想エッセイ)

自分は軍人の家庭に生まれたのだと理解したのは何歳の頃だったか覚えていないが、陸軍上がりの祖父の厳格な教えのもとに私は育った。

祖父は眉間に深い皺が刻まれ、眼光鋭く、おそらくはガラス製のレンズの眼鏡をかけていた。今では鉄鉱関係でもなければプラスチックのレンズだろうが(プラスチックは熱に弱いから極端に熱い場所にいる人たちには不向きなのだ)、小さい頃触らせてくれた眼鏡が重たかったから、そう思う。臙脂色のシャツ、仕立てのよいスラックス。祖父は銀に染めた髪をオールバックにしてポマードで固めており、私にとっては「格好良い」祖父だった。それに優しかった。そう言うと、祖母や母は苦笑いをこぼしたものだった。

祖父に一日中箸の使い方を仕込まれた日があった。幼稚園生の頃だったろうか。あれは私の大切な「おじいちゃんとの思い出」だが、人から見たら行き過ぎた躾だったかもしれない。

昭和の、紫煙で人の顔も朧の景色を見たことはないが、祖父はヘビースモーカーだったと聞いた。風邪をこじらせて肺炎で死にかけた時、もう煙草はやめると決めて、苛立ちが募っても本当に一切やめたらしい。「そんなに機嫌を損ねるなら煙草を吸ってください」と祖母と父に懇願されても吸わなかったと。聞かなかったがその苛立ちのために家族は殴られもしたろう。それなら吸ってくれたほうが絶対に良かったと思うが、祖父の意志は固かった。

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(以下、ゲ謎)において、子供が咳をしても電車の中で煙草を吸う男たち。主人公の水木も結果的には吸っているシーンはないが、吸うこと自体に何の疑問も抱いていないように見える。見事に聞いた通りの昭和ではないか。吸殻をその辺の道に捨てるし。

戦争の話を祖父から聞いたことはない。

聞かせてくれと頼んだこともある。でも話してはくれなかった。

『ゲ謎』の水木には左目と左耳、そして左の腹部あたりに戦争による怪我がある。

私の祖父にも、顎から下唇にかけて傷があった。銃弾によるものだと祖母から聞いた。あと数センチずれていれば頭に貫通して死んでいたと。私は祖父が生きていてくれてよかったと思った。

小さい頃、母を「ママ」と言ったら祖父から怒られた。敵国の言葉だからだと思う。あれには参ったな。言語習得の過程で発しやすい音から発するのは当然じゃないか? それからはたどたどしくも「おかあさん」と言えるようになった。

祖父が生きて帰ってきたのは偶然だった。偶然以外の何でもなかった。加護や彼の意思の力ではなかった。そんな加護なら誰しもにあるべきだし、もしくは誰しもに与えられないべきだ。帰る意思など誰しもがあったと思う。だから偶然なのだ。その偶然の末に自分がいる。

それがどうした、とは思えない。私は戦争の話を聞きたかった、ずっと。

『ゲ謎』は確かに「ヤバい村の話」、しかしそれ以上にあれは国の話だ。権力者がその地の富を巻き上げ、子供の未来を蹂躙する。貧しさの中で人は監視し合い、差別し、加担する。PTSDに苛まれる元軍人はこれ以上食い物にされないために足掻く。その働きは国の発展のためにと吸い尽くされる。

その中で最悪の大人が「最悪だ」と言われること、子供の気持ちを利用しようとした大人が謝罪すること、保証などなくてもこの世界がよくなることを予言すること。

傷だらけの誠実さだ。

大人になってから分かったことがいくつかある。自分が厭世的だろうが、子どもを特に好きじゃなかろうが、それでも子どもが夢を見られないのはおかしいと感じて、夢を描く余白のための世界の瓦礫をどかしたいと思うようになる。自分の生きる目的のための生活の中で、あるいは特に目的のない無為の暮らしの中で、出会いを通じてその瓦礫をどかすための行動に繋がることがある。常に大義があるわけじゃない。そんなに大層な人間じゃない。それでも、他人がこれ以上踏み躙られるのを見ているのは違うと、声をあげてしまうことがある。その、「なんでこんなことしちまったんだ」という面倒くささを私は愛する。

喉から手が出るほど欲しかった富が、ゆるせない醜悪な思想を持つ人間から渡されそうになったら、「あんた、つまんねぇな」と跳ね除けられる。面白いことが好きみたいな、そんなキャラでもないのによ。少し前の自分だったら単なる強がりや愚行だと思えるようなことをしてしまう、そんな男を私は愛する。

水木がそんなに手練手管に長けていなくて、案外体当たりだったし、ゲゲ郎を騙した後にわりと雑魚くてよかった。ゲゲ郎のアクションシーンもよかった。ゲゲ郎は妻を愛しているから、妻を助けるシーンでは水木がずっと血まみれでほっとかれているのもよかった。ロマンスじゃなくたって運命だ。

私は口元に傷のある祖父を格好良くて優しい人だと思った。今も好きだ。ただ、彼が行かざるを得なかった戦争を憎むし、家族の他の人間には大層横暴だったことは肯定するべきではない。

私は軍人の家で生まれた。家父長制の家で育った。その気質が無意識のうちに刷り込まれていることだってあると思う。それでもそういう気質や制度自体がゆっくりでも消えていくことを信じて生きるしかないし、これから長く生きる人たちに、もっとましな世界を用意したいと思う。

『ゲ謎』は村という小さな場所から繰り出される倫理の話だったけれど、そこへの道が閉ざされていたことが作中では偽りだったように、扱われていることは外からアクセスできると私は信じている。正直、Shipperとしての嗅覚で観に行ったのだけど、それ以上に内容が好きな話だった。