『koro』評 「異なる場所でみる夢」(奥村鼓太郎)

歌集評プロジェクト

歌集評を人に書いてもらいたいな、と思い、では原稿料を支払って書いてもらってはどうかと考えた。そこからお二人にお願いしたのだけれど、お一人はそのとき承諾していただいたけれど当時とてもお忙しかったので、全然急がないのでと伝えている。折を見て書いていただけそうだったら話を進めたい。

もう一人、依頼させてもらった奥村鼓太郎さんが先日提出してくださったので、ここに公開しようと思う。とても嬉しくて、よい文章なので皆さんぜひ読んでください。

異なる場所でみる夢(奥村鼓太郎)

 榊原の第一歌集『悪友』は、日常生活とそこで交わされる他者関係の表現に特徴があった。

機嫌なら自分でとれる 地下鉄のさらに地下へと乗り換えをする

人にとってもらわずとも自分で機嫌をとれることは、一人でも生きてゆける主体の姿を立ち上げるが、

立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる

しかし、他者が現れると、主体はその他者との距離を慎重に探り、他者の領域を侵犯しないように(あくまでも「岸」として)振る舞い、かつ他者への働きかけを放棄することはない。

「一人でも生きられる」と「他者への働きかけ」という二項の間で揺れながら、その揺れを生活ごと掬いとった歌集が『悪友』であったと思う。

 では第二歌集『koro』はどうか。

 この歌集にも先に挙げた揺らぎは通底している。しかしながらそれは、『悪友』よりも遙かに強度の高い揺らぎである。

『悪友』から『koro』までに榊原が遂げた変容は、「私は私しかいない」と「あなたはあなたしかいない」の間で揺らぐようになったことである。

葉脈のような雨降る 生きてさえいればやり直せないと分かる

この葉脈はおそらく平行脈だろうが、そのように細い雨が降りしきるなか、主体は生きることについて思案している。人生における「やり直せなさ」が永遠とも思える雨の景とオーバーラップし、ここには「人生は一度しかない」ということの実感がそのまま提示されている。人生が一度しかないのは、私は私しかいないからである。

冬銀河 胸からバッジ外しつつ信じていると言いたくて言う

言いたいことを言うことは(言うまでもなく)難しい。あなたにはあなたの領域があり、私の言うことは、その領域をつねに侵犯してしまう。もし言いたいことが「信じている」のような二者関係を恣意的に決定づけるものであれば、いっそう言うのは難しい。しかしながら主体は「信じている」と言わなければならない。冬銀河の無数の星々とは違い、目の前のあなたは、あなたしかいないからである。

 そして、「私しかいない」と「あなたしかいない」の間で揺れが最高潮に達するのは、この二項が一首に内包されるときである。

眼の奥に錆びた秤が一つあり泣けばわずかに揺れる音する

この「眼」が主体の眼なのか、あるいはあなたの眼なのかは書かれておらず、どちらともとれる。しかし、何度も読むとある可能性に辿りつく。それはこの「秤」が私の眼にもあなたの眼にも存在する可能性である。私やあなたが泣く度にその秤が揺れて、錆びた金属の鈍い音をたてるとすればどうか。その秤が音を響かせる空間は、この世界にただ一人しか存在しない私とあなたが、ただ一人同士として共存することができる空間である。

 ここで歌集のタイトル「koro」(読みは「ころ」ではなく「こーろ」であり、あとがきによるとエスペラントで「心臓」を意味する)という歌集のタイトルを思い出そう。「こーろ」という音から思いついた単語は次の二つである。航路と高炉。航路、船舶が海や河川を交通するための通路。高炉、超高熱によって鉄鉱石から不純物を取り除き純粋な鉄を得るための設備。二者を繋ぐものとしての航路と、不純物から純粋な物質を獲得するものとしての高炉。さらに表紙の、横に靡く濃い黒と、縦に入った赤のライン。これら二つのモチーフを一語に封印したタイトルとして「koro」を読むならば、作者の意図ではないかもしれないが、この歌集の本質の一側面を暗示しているように思えはしないだろうか。歌集『koro』に並ぶ短歌は、本質的に接続することが不可能で、不純でしかありえないようにも思える二者関係を、それでも接続し純化することを諦めないものばかりである。

異床異夢 それでも足を春泥にとられて心から笑いあう

 異なる場所で同じ夢を見られたらどれだけ素晴らしいだろうか。しかし、それは不可能なことである。そうであれば、異なる場所で各々の夢をみながら、春の泥に共に足を取られるところを笑い合えればいい。しかし、それもまた夢であるということからも、榊原は目を逸らしはしない。

 私は私しかおらず、あなたはあなたしかいない、という現実の先に、私とあなたが一人同士で笑いあう夢の空間の広がりが予感されている。