名局でも見ているのか? 小玉朝子『黄薔薇』

歌集勉強会

仲間たちと歌集勉強会を月一回行っている。一体なぜ僕が呼んでもらっているのか分からないが、扱うモダニズム短歌周辺の歌人はほとんど読んだことがなかったので本当にありがたいことだ。今まで前川佐美雄『植物祭』、齋藤史『魚歌』、早野台気『海への会話』、加藤克巳『螺旋階段』、早崎夏衛『白彩』を扱った。早野台気の回が僕としては一番落ち込んでいたが(理解できなかったので)、加藤克巳と早崎夏衛の回で元気を取り戻した。次回は小玉朝子『黄薔薇』に決まった。黄薔薇というとやはり速水ヒロさんを思い出すが、当然関係がないので頑張って思考を分離させながら読んだ(このタイトルは巻末記で「別に意味もなくつけました」と書かれている)。

『黄薔薇』を読んでところどころで笑ってしまった。短歌がうますぎる。それも派手なやり方ではなくて、随所でローキックやボディブローを挟んでくるボクサーみたいな感じの、細かいテクニックがある気がする。かと思えば厳しい一手が光る対局を見ている気分になる。それについて書いておこうと思う。掘り下げられていないところもあるが、勉強会前のメモも含んでいるのでご了承いただければ。

細かい技

潮錆のくらき海より這ひ出でゝわが胸を嚙むわにざめのむれ

はるばるとゆふべの濱の砂明り歩みつくして海のなか行く

草花の春咲くいろの話して母としづかな幸福にゐる

「潮錆」という語の恰好良さと、海から鮫が「這ひ出」るという生々しさ。「歩む」だけではなく「歩みつくして」。「春に咲く草花のいろ」ではなく「草花の春咲くいろ」という色の操作。

朝風はつめたくすがし座蒲團のまはりあまして我が坐るとき

座蒲団は確かに座ってみると少し周りが余る。「蒲団」の名にふさわしく、想定される人体よりも大きめに作られているからだ。それをわざわざ言っている歌を僕は知らない(あるのかもしれないが……)。しかも、それが周りが余っている、というに留まらず、「あまして我が坐る」と自分の所作がそこに関わっているとするのは何か変だ……と初読のときに思った。確かに胡坐だと余らない、のか? 自分が「そうだな、確かに余る」と確信できたのは、この歌を読んだときの景が「正座」だったからだ。この時代の服装や、座蒲団にわざわざ座ることを詠んだのだから、と考えると「正座」は自然かもしれない。しかし、おそらくその自然さは「朝風はつめたくすがし」の時点で、既に確固たるものにされていたのだ。語のニュアンスをこうも微妙に操作できるものなのか?

「短歌がうまい」。単純な感想を抱いてしまった。

何をのぞみています母かとおもふとき日の光さむく堕ちかゝりくる

せまき空によりてかゞやくすばる星遠き目に見て襟かきあはす

「堕ちかゝりくる」や「かきあはす」といった複合動詞の使い方が「そこにそれで間違いない!」という囲碁の名局を見ている気分になる。

かたむけし鏡のなかに傾きて四角の空が青く通れり
白きばら白く咲き出づる不思議をば痴呆のわれがほじくりてゐる

このあたりは巻末記にも登場する前川佐美雄の影響がある気がしてならない。一首目は、

なにゆゑにへやは四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

から始まる連作「四角い室」を、二首目は、

ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる

で終わる連作「白痴」を思い出さずにいられない。前川佐美雄『植物祭』の勉強会の際に教えてもらったことだが、当時の文学の界隈の流れのひとつだったらしい(キュビズムが日本に入ってきてそれを取り入れた・1930年に中原中也たちが「白痴群」という同人雑誌を作った)。短歌では前川の作品が残っているというだけで、発明者というわけではないのだろうけれど、前川に近かった小玉が同じような作品を残しているのはやはり影響があったと見るべきだ。

氷枕の水が音する寝がへりにひろげ見しはしろかりにけり

は、小宮山遠の「夕焼の中来て白き掌をひらく」を思い出したが、小宮山が1931年生まれで『黄薔薇』が1932年刊行であることを考えると、その二者が関わっているということでもないだろう。そもそも小宮山の「白」は新興俳句の影響を指摘されている(「白という色彩は新興俳句にとっては象徴的な色彩でした」)。短歌でも「白」がこの時代には象徴的に出てくるけれど、この小玉の歌に関してはどれほどの意味があるのだろう(掌が白いということ、掌を白いと表現することはそれほど特別なことではない……)。

それよりも小玉の歌で象徴的なのは「青」である。

風青くすこし吹く時向き變へて黄のかまきりがわれを見にけり

星ばかり散らばつてゐた大空にけさ青々と撫でられてゐる

ぶらんこはまつさをにゆれゆられてるこどもの髪が日にかゞやけり

病身の眼ばかり青き火になして空翔ける鳥のさびしさとなり

かげのいさゝか青き庭くまにおほわた小わたとび出でにけり

この他、「青(蒼)」を使った歌は六首ある。ただ、こうして集めたところで青色について何か書けるわけでもなかった。色彩とモダニズム短歌の関係を記した本があるのならそれを読みたい(知っている方がいたら教えてください)。

好きな歌

最後に好きな歌を引く。

火花ひらき散りて消えゆく瞬間ののさびしさはを迷はしむ

歸らうと早く云ひてよ人込みのにほひはわれをみなし児にする

情熱をこはしたひとに六月の花束を送る煙草もそへて

かすかなるものとなりつゝ夏幾度われの記憶にひとを立たしむ

やさしと言はれやさしき者になりてゐつわが手に君が手はかさねられ

勉強会前の僕は、「モダニズム短歌」をもう過ぎたものであり、難しく、そしてどこか自分には関係ないと思っていたのだが、そんなはずはない。自分が短歌をやる以上短歌の歴史を継承している、とも思っていない。ただただ小玉朝子の歌は、モダニズム短歌は面白い。こんなの知らずにいたなんて、そして他の何万何億という短歌を知らずにいるなんて、勿体ないじゃないか。