小宮山遠に関するノート

小宮山遠という俳人の話がしたい。

僕は大学時代に足繫く通っていた喫茶店「まめすず」の本棚にあった、塚本邦雄『百句燦燦 現代俳諧頌』の中で、小宮山遠の俳句に出会った。

縊死もよし花束で打つ友の肩

「縊死」という言葉を、僕はこのとき初めて知った。生きている友人に花束を軽くぶつける。友人に何かのお祝いとしてあげるつもりの花束なのか、それとも作者が誰かから貰ったものなのか。葬儀には花束を持ち込まないし、棺の中にいる友人に花を手向けるにしても束ではない。これは生きている作者が、生きている友人の肩を花束で打つ句だ。この句は、「首を吊って死ぬのもいいだろう」という思いの後、「花束で打たれた友人の肩」に視点が移動する。おそらく鮮やかな色をした、それゆえに目を引く「花束」よりも、「友の肩」を終着点にして句は終わる。「縊死もよし」の思いは己に向けてよりも、僕は友人に向けたものとして受け取った。発話されたかどうか分からないが、友人に「首を吊って死ぬのもいいだろう」と思うのは一体どういうことなのか。「縊死も」ということは、他の様々な死のパターンを想定して、あれもいいしこれもいい、そして縊死もいい、ということなのだろう。友人の未来の死に方に対する受容と肯定がある。道徳的な判断では、「友人の縊死」は到底受け容れられるものではないかもしれない。けれど、「縊死もよし」と言い切る。どう死んでもいいと相手に思うことは、どう生きてもいいと思うことと、ほとんど同じことのように僕は思う。それはひとつの信頼のかたちではないか。祝いの場にも弔いの場にも、種類は違えど必ず花があり、この句における「花束」はその二つのイメージを持つ。それで友人の肩を「打つ」。そのやや乱暴な動作は、抽象的なメッセージを持つ「花束」と具体的な実体である「友の肩」との衝突をもたらす。僕はそこに、いつか必ず死ぬ友への祝福の結実を見た。

いづれにせよここでは死は最終的な救濟として未來に預けられ、幸福の實體は人の肩を打つ道具程度に扱はれる。生の價値は意識的に貶められ、苦惱や煩悶はノンセンスな深刻趣味として諷刺されるのだ。
彼ら、すなはちわれわれにとつて花束とは空しい大義名分、他人の榮光に賭けて敗れた不可視のはなむけではなかつたか。
塚本邦雄『百句燦燦 現代俳諧頌』、講談社、2008年(文庫版)、p.139

この塚本の文を当時の僕が、あるいは今の僕がどれほど理解できたか正直怪しい。しかし、とにかくこの一句が僕の心の中にずっとあった。その影響は、僕が大学時代に在籍した京大短歌の機関誌に最後に寄稿した15首連作「戯れに花」「京大短歌」21号に如実に表れている。その連作の最後の一首は「月からは見えない石階いしばしにふたり 友を打つため花束はある」で、この一首、そして連作「戯れに花」は間違いなく小宮山遠のあの一句から生まれたものだった。この連作は拙著『悪友』にも勿論収録した。思えば笹井宏之賞を受賞した連作「悪友」も、「戯れに花」を引き継いだものではなかったか。僕は「戯れに花」以降の自分の短歌はそれ以前の作風とまったくといっていいほど違うと思っているし、そうさせたのは小宮山遠であると、改めて感じる。

小宮山遠は1931年2月23日、静岡県藤枝市に生まれた。高校在学中に秋元不死男を知り、「氷海」創刊と共に参加。また西東三鬼の「断崖」にも一時籍を置いた。1957年、個人的な見解から結社誌の在りように疑念を抱き離脱。以後はすべて同人誌(「道標」、「黒」、「海程」、「頂点」、「夢限航海」等)に拠る。句集に『喪服』、『黒鳥傳説』、『第七氷河期』、『林棲記』がある。第三回海廊賞、第四回頂点賞、第五回県芸術祭賞等を受賞している。小宮山を簡潔にまとめるならばこのようになる。

インターネットでは、冨田拓也の「―俳句空間―豈weekly 」にまとまった評がある。俳句誌『鬣』で水野真由美や江里昭彦が何度か言及していることを確認できる。また、齋藤愼爾は『最初の出発』第二巻で、小宮山の『喪服』の項を設け、評を

「小宮山遠のような俳人を貝殻追放しておいて、何の俳句史ぞやという痛憤がある」

と書き出した。

『喪服』には白昼の正統の俳句史から離れて、私たち読者を影の異端の俳句史開板の構想へと誘う衝迫力がひめられている。ひとはしばしば早熟・天稟を口にする。しかし小宮山遠のような戦慄すべき一行を十代にして彫琢しえた早熟の俳人を私は寡聞にして知らない。誓子、草田男、波郷、楸邨の天才をもってしても、固有の文体の「完成」をみるには二十代を待たねばならないであろう。

とも書かれている。しかし、齋藤があげた四人の天才ほど小宮山が知られているとは思わない。現代で小宮山の作品をまとめた本が出ているわけでもない。俳句の同人誌へのアクセスが現代ではなかなか難しいこともあり、結社を離脱した俳人の作品は忘れられやすいように思う。

角川「俳句」(1970年6月号)の書評「小宮山遠句集『喪服』」(pp.166-167)で、佐藤鬼房が

「氷海」には、堀井春一郎や鷹羽狩行らの駿足が居り、とくに鷹羽と小宮山は力倆を競つた仲のように記憶する。

と書いている。そうした俳人が忘れられる、あるいは知られもしないというのは惜しいことだ。先に述べたように僕は小宮山に、小宮山の句に思い入れがあるため、一人でも多くの人に小宮山遠を知ってもらいたい、あるいは再発見してもらいたいと思っている。

のちのち、句集ごと、あるいは何らかのテーマごとに文章を書いていきたいと思っているが、最初に四冊の句集から五句ずつ抜粋しておく。

以下『喪服』(三青社、1969年)より

寒卵わるとき火事に似しおもい

露一粒その周辺の昏きことよ

全身に寒さ呼ぶごと踏切越ゆ

園は黄に枯るゝ「このとき目覚めねば」

切手甘し遠く日当る木の車

以下『黒鳥傳説』(創英出版、2001年)より

死後に着きたる

ピレネーの
雪の絵葉書

一行に
書かねばならぬ

沖の火事

雨の大杉

死に遅れしを
余命とびて

野苺に
天の
嗚咽の
はじまれり

裏山は
裏山として

異端かな

以下『第七氷河期』(帆前船社、2004年)より

闇はちからルドンの花の色置けば

春寒しどこかに紐の垂れおらん

湖上に冬日ひとつアラゴンの詩のごとし

冬薔薇正法眼蔵まだ読まず

水の中に水溺れゆく夕芒

以下『林棲記』(創栄出版、2015年)より

コルクぽんと抜けて燕の來る日なり

梨甘し顔半分に日が当り

涼しさは小鳥が水を呑むやうに

君より先に逝くが必定夜の梅

死のあとに生前はあり燕子花

選び方が恣意的かもしれないが、こうして見ると小宮山は生涯で描くモチーフが大きく変化していることはないように思う。終わること、死ぬこと、今ある空間が生前と死後に挟まれていること。また、『黒鳥傳説』では多行形式になっているため、表記についても語ることができそうだ(多行形式自体は小宮山があとがきで述べているように、高柳重信などの先駆者がいるため彼が始めたものではない)。

倉阪鬼一郎『怖い俳句』(幻冬舎新書、2012年) では、

見えねども風の砂丘を柩くる

などの句が引かれ、「詩情に彩られた実存的な怖さを伝える秀句を多く作った俳人」(p.186)であり、「再評価が最も待たれる俳人の一人」(同上)と評されている。

その「再評価」のための準備を、僕は担うつもりでいる。お付き合いいただければ幸いだ。