歌集メモ:小林久美子『アンヌのいた部屋』、『ピラルク』、『恋愛譜』

『アンヌのいた部屋』

読んだ歌集についてメモをまとめていこうと思う。今回は小林久美子さんの『アンヌのいた部屋』、『ピラルク』、『恋愛譜』について。

ある日、鈴木竹志先生から電話がきて、そのなかである歌集の話になった。竹志先生からはたまに電話がくるし、僕もする(ちなみに、「先生」というのは、高校時代の名残だ)。とてもよい歌集だから読んでみるといい、とか、電話越しに珍しく熱弁されたような気がする。それが『アンヌのいた部屋』だ。

東京に来て日は浅いが、歌集なら新宿紀伊國屋に行けば間違いないことは分かる。早速手に入れた。簡素ながら静かで美しい装丁の本を捲ると、多くの人が言及している点がまず目に入った。

落雷を沖にみていた
運命に
手を貸すことは
できないように
/「うつくしい書簡をまえに」

不遇にさえ
うるおされたのを想う
つながって往く二艘の舟に
/同上

つまり分かち書きである。

3行、もしくは4行。1頁につき2首の構成だ。ある程度音の切れ目で分けて書かれているのかと思ったけれど、

もの音を大きく響かせて
しまう
溶き油の瓶を落とした
せいで
/栗色のマフ

など、そうではない歌もある。ちなみにこれも同時に指摘されることではあるが、こういった書き方であっても歌はだいたい31音。これについて、東郷雄二さんの「橄欖追放」では、

やはりこれは伝統的な意味での短歌ではなく、31字という総枠規制だけを守って中身を換骨奪胎した四行詩と見るべきだろう。

と記されている。

何をもってして短歌というか、そうではないと言うか、僕はあまり考えたことはない。「短歌です」と差し出されたらどんな長さでも書かれ方でも「そうなんだ」と思う。逆に、5・7・5・7・7が遵守されていても、「短歌じゃないです」と言われたら、それも「そうなんだ」と思う。

Twitterに日本語版Wikipediaから偶然短歌の韻律になっているものをツイートする「偶然短歌bot」(@g57577)というものがある。あのbotが生み出す鋳物に、短歌を作るひとなら誰でも「短歌とは一体……」と考えたのではないだろうか。知らないけれど。僕はあのbotに「敷島の大和心を人とはば朝日に匂う山桜花」が入ってしまっていることをすごく面白いと思っている。本居宣長の歌なので偶然短歌ではないところが2乗に面白い。求められてもこれについて深い説明はできないが。

話が逸れたが、「短歌です」と言われた以上、柴田葵さんの『母の愛、僕のラブ』の中の

うん
/「より良い世界」

も短歌だし、瀬戸夏子さんの「すべてが可能なわたしの家で」も勿論そうだ。

そして僕は『アンヌのいた部屋』を「歌集」として読んでいるので、これも短歌だなぁと思うのみだった。

鈴木竹志さんの「竹の子日記」では、是非読んでほしいという旨の次に、

短歌の向かう極北の地がここにあるのではないと思うから。もちろん、極北は、詩の極北でもあると思う。短歌とか詩とか、そういう区別はもういらないということかもしれない。

と書かれている。極北? 僕も分かち書きをしてみたら何かわかるのかもしれない。

『アンヌのいた部屋』では、かなり付箋がついた。

おなじことを思いみる
二本の薪がひとつの
炎になるまでに
/「栗色のマフ」

僕はこの歌を、主体と誰かが「おなじことを思いみる」のだと読んだ。二本の薪を見ながら。それは僕の中でレマルクの『西部戦線異状なし』の読書経験があるからかもしれない。カチンスキーと「僕」(パウル・ボイメル)が盗んできた家鴨を焼くシーンがどうしても蘇ってきてしまう。僕はこのふたりの食事シーンほどに心が燃える食事の描写を知らない。

Was weiß er von mir - was weiß ich von ihm, früher wäre keiner unsere Gedanken ähnlich gewesen - jetzt sitzen wir vor einer Gans und fühlen unser Dasein und sind uns so nahe, daß wir nicht darüber sprechen mögen.
/"Im Westen nichts Neues"

(「カチンスキーは僕の心を知らない。僕もカチンスキーの心を知らない。今までお互いの心が、一度として同じだったことはなかった。それが今はこうして、一羽の家鴨を前に、互いの存在を感じながら、何も言わなくていいくらいに、その心を近く感じている」)

ってことだろう……? と思ってしまう。他者とは分かり合えるはずもないのに、心が、思っていることが重なり合っていると感じる、同じだと言えてしまう、僕はその錯覚に心が震える。その時間は大抵短く、錯覚ならば永遠にあってもいいのに、その炎を見ている間で終わってしまう。僕はそれを見て訝しむのだ。まさか本当に? と。当然そんなことは確かめようがないのだけれど。

歌集を読むときはかなりタイミングが大切だと思っている。それは歌集へ没頭できるかもそうだし、あのときあの歌集を読んでいたからこの歌集がより分かるとか、あの経験があるからこの歌集が捉えられるとか。僕は漫画「ブルーピリオド」に熱を上げているので、絵を描く主体が出てくる『アンヌのいた部屋』は「なるほどね」とIQ200くらいの気持ちで読めた。

汝を画きながら
もとめているのがわかる まだ
気づいていないことを
/「すりきれた袖にシフォンの縁飾り」

この歌は「ブルーピリオド」6巻を読むと完全に理解した気持ちになる。八虎くんに思いを馳せてしまう。かくことで自分の中で浮き彫りになるものがある。自分の探していたものが、欲していたものが、みっともないくらいに恥ずかしいくらいに出てくる。それも、自分では分かっていなかった、気づいていなかったもの。かくまでそんなものは無かったかのように。

ひとの手に折り畳まれて
二夜を越え
吾の手のなかに開かれる紙
/「すりきれた袖にシフォンの縁飾り」

汝は午
つめたい風に荷を
提げてきたゆびさきを
口もとへやる
/「仕切り棚と球体」

ただ手紙が届いただけ、ただ一人の人間がひとつの動作をしただけ、それだけの歌なのにどうしてこんなに気になるのだろう。情報が少なくて、入り込めないからこそだろうか。外から見るしかない精巧なスノードーム、あるいは誰かが確かに飲んでいた紅茶の匂いのような。

鐘はきよらかに二時を告げる
みつばちが蜜を
口うつしするとき
/「烏瓜の押し葉」

招いてくれるだろうか
ひとりだけ坐れる椅子に
ひととき死者は
/「二枚のサンギーヌ」

『ピラルク』

『アンヌのいた部屋』を読んだ後、『ピラルク』と『恋愛譜』を貸してもらえた。この二冊では歌は一行で、『アンヌのいた部屋』に比べ、かなり他人の気配が濃い。以下、『ピラルク』から。

発熱のあなたをつれだし今世紀最後の皆既日食みせる/「皆既日食」

なんてひどいことを……と思ったが、自分が見たいと思っていたら熱が出ていても連れ出してくれと思うかもしれない。今世紀最後の皆既日食なら。「あなた」が見たかったのか分からないけれど。

場面設定が突拍子もないものも多い。

年に二度作さく花ばかり植えているひとり暮らしの観光局長/「コントI」

誰?! と思ったが、「年に二度作さく花ばかり植えているひとり暮らしの観光局長ですよ」と言われるに決まっている。ちなみに「コントII」という連作も収まっている。

大聖堂はひるをアルトでつげおえて乾季のシューバになめられていく/「乾季の雨」
夕立の寸前そらはらくだ色に 堅い約束かわしてしまった/「ボリビア」
眼のごみを流せばひったり満ちてくるひとを失うときの心が/「弱虫」

異国語が混じりながら編まれた連作もあり、それはあとがきにあるように、小林さんが三年間サンパウロで暮らしたことも関係しているのかなと思う(ちなみに『アンヌのいた部屋』ではあとがきはない)。「アトリエ」という連作もあり、裸婦と主体の歌が並ぶ。第三歌集から読むと、逆流で未来への根拠みたいなものを探してしまうのであまりよくなかったかもしれない。

『恋愛譜』

終わろうとする夏そっと朝を呼びながらひとりの肩を冷やしぬ/「朝の火」
遠く立っていただいたのはよく視たいからだったのに しずかな径で/同上

短歌を読むときに作者のパーソナリティについてほとんど考えたくないのだけれど、「みち」に「径」、「すわ(る)」に「坐」を選ぶところに、そういうものを見てしまい、それはむしろ嬉しい(複雑だ)。

ねじをゆるめるすれすれにゆるめるとねじはほとんどねじでなくなる/「礼拝堂」
すぐそばの萌える峠にきてくれた雪のまぶしい町に出あって/「恋愛譜」- 「五月の空よりあわい青の恋愛譜」
締まりつつ雨つぶ固く当たりおりぶなの樹が隠したる青葉に/「八月の海よりふかい藍の恋愛譜」

二首目ははっとするような色彩を持っているし、三首目の緻密な描写も好きだ。神のような視点、もしくはそうなると分かって構えられたカメラが捉えた一瞬みたいな歌は格好良い。

ジャン・コクトーに似た線描の一輪車黄ばみはじめてぽっかりと冬/「赤い大地」
屠られるのを待つ鳥がうつくしい闇へ吐きだす口中の青/「廃船」
いちにちに二度の抱擁 かくれ家の冷蔵庫がふるびるほどの/「砂州」
胸中の草の台車を積みおえる 雪は間にあわないままに降る/同上

例えると、『アンヌのいた部屋』はトーンが統一されていてハマスホイの描く絵のような印象だった。『ピラルク』はビビットではないが明るい色の点描という感じで、『恋愛譜』は全体は柔いモノクロなのに一箇所だけカラーが残る写真のようだ。

『恋愛譜』のあとがきに、

初めてのひとに会ったとき、もうこのひととはこの場限りで二度と書くことはないのだろうと感じることがある。それでも日が経って、短歌を書くためにじっとしていると、どこからともなく風が起こって、そのひとが現れる。短歌を書いているのは、そういうひとたちを忘れないためなのかもしれない。

という文があり、とても好きだ。

小林さんの歌集では、外国語の音や語彙を含んだ歌もあるが、造りはかなり平易で、奇を衒っているものはない。『恋愛譜』の付録の冊子に、大辻隆弘さんが文を寄せている。「何の変哲もないわかりやすい」言葉でも、小林さんに繋げられると、「歌全体や言葉の流れにどこかいつもと違う撓みが生まれる」と。「この撓みを曖昧なものとして排除する人には、小林さんの歌の魅力はわからない」とも書かれている。なるほど、と膝を打った。文章自体も理解できたが、こういう「撓み」みたいな語彙を僕も身につける必要がありそうだ、と思った。今後は、読んだものをこうして書き起こしていきたいので。

僕はほとんど歌集を読んだことがなくて、去年の記録を振り返ると8冊だった。8冊!? 同人誌は含んでいないにしても少なすぎる。今年は既に再読を含めると4冊になった。去年の半分のペースだ。今年は読んだり書いたりすることを頑張ろうと思っている。そのきっかけとして、小林久美子さんの歌集について、こうしてメモを残した。