川野芽生『Lilith』を読んで

川野さんの歌集を先ほど読了したので、自分の為にもメモしておこうと思います。

構成

『Lilith』は三章に分かれ、それぞれ「Ⅰ anywhere」、「Ⅱ out of」、「Ⅲ the world」と題が付いている。これについて佐藤弓生は栞文のなかで、

anywhere out of the world――世界の外ならどこへでも――という一節に注目しておきたい。ボードレール詩集『パリの憂鬱』中の一篇(彼はany whereと二語に分けている)として知られ、中原中也の詩にも見られるフレーズである。
(中略)
「anywhere」は実景を通じて得た感興、「out of」は空想世界に託した自己像や思惟、「the world」は現実世界への困難を、おもにうたった構成のようだ。

と紐解いていた。これは優れた構造への解釈で、『Lilith』を読んだ人の大きな助けになるのではないか。水原紫苑と石川美南はどちらも栞文に「闘い」という言葉を入れており、この歌集に込められた意志をひしひしと感じ取っている(水原の栞はその感情の大きさに思わずよろめいてしまうほどだった。詳しくはお手元の栞をご確認ください)。

歌壇賞を受賞した連作のタイトルでもあり、歌集のタイトルでもある「Lilith(リリス)」は、もともとユダヤの伝承において男を害すると信じられていた女の悪霊の名である。

創世記一章二十七節には、神が自身にかたどって男と女を創造したとあるが、二章二十一節ではアダムの肋骨からイヴが作られたとされている。そのためイヴ以前に、神に男性と同時に作られた女性がいたと考えられた。それがリリスであり、アダムの最初の妻だとしたのは中世(八~十一世紀と考えられる)の文献である。

しかし重要なのは、この経緯から、現在では女性解放運動の象徴の一つとなっているということだ。この点をおさえているだけで、水原や石川が書いているような、川野の「闘い」というものが、より具体的に読み込んでいけるのではないか。

僕は通常、歌集を読むときには三色の付箋を傍らに置く。「(理解できる)よい歌」と「(理解できなくとも)すごい歌」と「関係性の歌」である。「これらの要素が拮抗したときにはどれを優先して付箋を貼るのか」と問われたことがあるが、それは「関係性の歌」だ。しかし川野の歌集ではその「関係性の歌」の付箋が非常に少なかった。僕が付箋をつけるほど強い感情を抱く「関係性の歌」というのは、簡単に言えば「相互作用かつ相互不理解」(お互いが思い合い、行動を起こすが、真に理解できることなどない)の歌なのだが、『Lilith』にはそれがほとんどない。「相互不理解」というよりは、主体は分かってほしいと感じているにも関わらず、それが叶わない、或いは相手が分かるまでこちらが作用したくない、相手にこちらの作用してほしくない、という距離を感じた。そもそもそんなに話の通じる相手が出てこない気がする。(連作ごとに主体は異なっていると思って読んでいるが)歌集を通して、ここは主体と相手の心が通っているな、と感じたのは、「姉」に対してくらいである。

駒鳥を追ひゐるごとし姉をつれ植物園の門を探せば
藍いろの馬立ちつくす手袋のひだりは姉がはめてゐる午後
風邪のたびこゑを喪ふ姉とゐてみづからの声も忘れはじめぬ
稲妻といなづまが呼び交はす夜を歩いた ふたり植物園を
-「水の真裏に」

「通っている」などと書いたが、それを読み取るのが難しいほどかなり静かな語り方だ。

たれも追はずたれも衛らず生きたまへ青年よいまここが対岸
-「Lilith」

相手への「距離」を最も感じるのは上の歌だ。「〈男(をのこ)みなかつて狩人〉その嘘に駆り立てらるる猟犬たちよ」にも表現される、「男は皆○○なのだから△△すべきだ」というような〈嘘〉に惑わされず、誰も追わず衛らずにいろ、という。そしてただ生きろと。ここで何らかの刑を執行せずに「生きたまへ」と言い渡すところが寛大だ。そこは主体の〈対岸〉だけれども。

憂愁をかつてきみよりならひしにきみにはなれず グラスを仕舞ふ
-「水の真裏に」
相討ちのわれらのかばね擁(いだ)きあふ樹や伝承の苗床として
-「ベオウルフの春」

以上の二首が僕がなんとか見つけた(僕基準の)「相互作用・相互不理解の関係性の歌」である。一首目、感情のひとつである「憂愁」を「きみ」に教わったが、その「きみ」になることはできない。それもまた主体にとっては「憂愁」なのかもしれないが、主体がとる行動はそこで「きみ」に作用することではなく、「きみ」に似ることでもなく、「グラスを仕舞ふ」。そのグラスの脆さ・冷たさ・手触りが読み手に響くが、主体はこの「グラス」を取り落としたりはしないだろう。感情を隠すように、確実に仕舞われるはずだ。二首目、これは「相討ち」なので明確に相互作用しているが、それゆえにその後二者間の感情のやり取りは叶わない。しかし、その屍が誰に引き取られるわけでもなく樹に取り込まれ、いつか誰かが語り継ぐだろう。それは正確な物語ではないかもしれない。間柄や、もしかしたら名前すら正しいものは伝承されないかもしれない。しかしそれについては怒りや悲しみといったものは読み取れない。どちらも感情に振り回されない、しかし心地よい温度の歌である。

こころとは巻貝が身に溜めてゆく砂 いかにして海にかへさむ
-「アヴァロンへ」
こころとは異土のこと 尾を喪ひし人魚を夜の森に放てよ
-「舞曲」

一冊を通して相手への距離が遠く、「こころ」でさえどこか煩わしいと感じるか、慣れないものだという一貫した思いが伝わってくるかのようだ。「こころ」というのは形や量の変動はあれど、だいたいが自分の内にあるものだと思うのだけれど、それを「身に溜めてゆく砂」というのは分かるが、主体が考えるのは「いかにして海にかへ」すか、ということなのだ。もとは別のところにあり、それがたまたま己の身に入ってきた。それを還したい、と思う。または、外の土地のようだと。ひょっとしたら自分の言葉も自分が知っている法律も通じない、油断ならない場所。

つばさあるものわれにきて来よと云ふゆかむと答ふさらばゆかなむ
-「ラピスラズリ」

探したのだけれど、他者とすんなり話が通じているのは、ひょっとしてこの歌だけではないだろうか(そもそも他者とひっきりなしに・積極的にコミュニケーション力をとっている歌は少ないが)。その相手は人間ではなくて、「つばさあるもの」だ。

連作「Lilith」

連作「Lilith」について、以前書いたnoteの文章の一部をほとんどそのまま載せようと思う(記事を移動するのが自分が読み返したときに負担になるので)。

〈モチーフの関連〉

「Lilith」は、モチーフの関連が見事な連作である。

馬手と云へり いかなる馬も御さずしてさきの世もをみななりしわが馬手
harassとは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで
晴らす(harass) この世のあをぞらは汝が領にてわたしは払ひのけらるる雲
談笑の室(へや)を抜け出てあぢさゐの陰なるカウンセラー・ルームへ
なにゆゑに逃げざりしかと問われゐつ共犯を追い詰むる口調に
荷車を曳く馬の背に筋みちてときに人とは零るる林檎
摘まるるものと花はもとよりあきらめて中空にたましひを置きしか
〈男(をのこ)みなかつて狩人〉その噓に駆り立てらるる猟犬たちよ

一首目の「馬手」から二首目の「猟犬」、そして六首目の「馬」、八首目の「猟犬」でもモチーフは繰り返され、寓話のように読めながらも、自然に読み手は「狩り」が持つ、加害と被害の関係性を念頭に、この連作と向き合うことになる。

「猟犬をけしかける声」であった「harass(=ハラスメント)」は三首目の「晴らす」のルビで再登場する。「わたし」は、本来はプラスのイメージを覚える「あをぞら」を誰かが見るために「払ひのけらるる雲」だと示すのだ。ここには後に挙げる〈異化〉の効果もあるだろう。四首目、五首目で主体が更に追い詰められていく。六首目、七首目に登場する「人・零るる林檎」や「摘まるるもの・花」は、被害を受ける立場にある。

狩りとハラスメントの構造が冒頭から提示されながら、それと並列して〈共犯〉という側面が構築される。単なる加害・被害の構造に加え、「被害者側が己の被害に加担していた、自ら害を被ることに頷いたのではないか」という疑いを掛けられる。この疑いは、直接的な加害者からではなく、それをただ傍観していた(見ていなくてもそれについて意見をした)例えば「カウンセラー・ルーム」のなかから発せられる。

三句目を挟んだ強い表白

藪内亮輔は「京大短歌 17号」に寄せた「短歌の二重螺旋構造」という評論の中で、一首の中で盛り上がりを見せる初・二句と四・五句を、停滞する三句目が繋ぐ(意識の〈渡し船〉を担う)ことで、「うねり」が生み出されるとした。この「うねり」の構造が、強い心情や主張を乗せることを可能にする(藪内は「強い心情・断定・主張」をまとめて「表白」と表現している)。この「表白」は“一般的な見地”ではありえず、“私”の心情である(=表白を行うとき、“私”は“自己”を人前にさらけ出すリスクを負う)。

また、この〈渡し船〉である三句目には動作を示す語が多い。以上を踏まえて「Lilith」に目を通してみれば、〈表白〉の歌が多く、そのどれもが短歌の「うねり」を利用した凄まじい強度をもつことに気づくのだ。

なにゆゑに逃げざりしかと問われゐつ共犯を追い詰むる口調に
摘まるるものと花はもとよりあきらめて中空にたましひを置きしか
さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し
うつくしき沓を履く罪 踊り出す脚なら伐れ、と斧を渡さる
白木蓮(はくれん)よ夜ごとに布をほどきつつあなたはオデュッセウスをこばむ
敗北と屈服の差は(燃やさるる星)屈服と承認の差は
無理強ひにとざすまぶたの慄へゐて湖(みづ)のおもてに残るはなびら
たれも追はずたれも衛らず生きたまへ青年よいまここが対岸
わがウェルギリウスわれなり薔薇(さうび)とふ九重の地獄(Inferno)ひらけば
汚名つね雪ぐあたはず 髪に背にくちびるに紅葉享けてあゆめり
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ
たたかひはうつくしきものの手にわたり地上に生くるほかなきわれは
いつか誰かが置き去りにして透きとほる蛹とならむこの世と思ふ
つきかげが月のからだを離るる夜にましろくひとを憎みおほせつ

宣誓としての連作

主体がハラスメントを受け、それを他者に〈共犯〉のように捉えられてしまう。男性視点から作られたものを過誤(あやまり)とし、「憎みおほせつ」で終わるこの連作は確かに激しい怒りを内包しているのかもしれない。

しかし、この連作の、「たれも追はずたれも衛らず生きたまへ青年よいまここが対岸」、「ほんたうはひとりでたべて内庭をひとりで去つていつた エヴァは」といった歌に、個人が個人として他人を干渉(侵害)しない世界を希求するさまが伺えた。人間が一個人として、完結して生きられることを教えようとしている。この連作を通して提示される〈狩猟〉のモチーフは、〈男(をのこ)〉に刷り込まれた間違った考えであり、噓であると言い切る。“慣習”となってしまった意識や構造の問題を、「Lilith」は〈異化〉の歌を挟むことで浮き彫りにさせる。当たり前だった考え方、慣習になってしまったもの、麻痺してしまったものの捉え方を揺るがせる。

自分はこのように生きるのだと高らかに宣誓するような、そんな連作だと思った。

たれも追はずたれも衛らず生きたまへ青年よいまここが対岸
わがウェルギリウスわれなり薔薇(さうび)とふ九重の地獄(Inferno)ひらけば
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ

異化

〈異化〉とは、日常で見慣れたものを非日常的な形で提示する表現方法である。慣習が感覚を鈍らせる作用を克服する効果をもつ。具体的に見ていこう。

さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し
-「Lilith」

季節が流れ、樹の色が変わっていく。この事実を、“慣習的に”歌の内容にするならば、「樹々が色を変えることの美しさ」や「時のうつろい」に目を向けることになるだろう。しかし、ここでは違う。「季節」が「さからはぬもの」である「樹々」の色を否応なしに変えていくのだという。すると、季節は加害の象徴であり、樹々は被害の象徴となる。今まで見ていた世界と違うものが読み手の前に聳えてくる。これが〈異化〉である。

こうして読んでいけば、綺麗なものの象徴として捉えられ“がち”な「葩」は「顔を喰ひ荒ら」している(「葩(はなびら)に顔を喰ひ荒らされながら運河渡れりゆめ澱むなよ」)し、「紅葉」がもはや「汚名」と重なって見えてくる(「汚名つね雪ぐあたはず 髪に背にくちびるに紅葉享けてあゆめり」)。いずれも「Lilith」からの引用である。

〈異化〉を効果的に使った他の歌を、歌集『Lilith』では読むことができる。

神がみがくちづけかはす(あれがベガ)プラネタリウムにて穢されき
-「boy meets girl」
はなびらを木々が見捨ててゆく春にあなたの嬰児なりき 告げてむ
-「舞曲」
春は花の磔(はりつけ)にして木蓮は天へましろき杯を捧げつ
-「老天使」
街が街が抜け出づる宵茉莉花の香にたましひを屠られながら
-「火想(くわさう)」
婚礼に汚るる街よ紙ふぶき髪よりひとひらづつ取りはづす
-「ひらくのを」
ほめことばふはふはまとはりつくひるの蜘蛛の巣まみれの庭園をゆく
-「ひらくのを」

などが挙げられる。五首目、「婚礼」という語が“慣習的に”もつ、うつくしい・めでたい・祝福のイメージ。祝いのために撒かれる紙ふぶき。それによって街が、主体の髪が「汚るる」ものとなってしまう。五首目の「ほめことば」は、掛ける方も善意であり、掛けられた方も喜ぶ(ことがよい、礼儀だ)とされる。しかし、それが「蜘蛛の巣」のように主体にまとわりついていく。その心境の比喩と、実際に蜘蛛の巣にまみれた庭園があるという実景が重なっている歌である。蜘蛛は己の住処であり捕食の為に巣を張り巡らす。連作の前の歌を読むと、「二人旅」を共にする友人に「ほめことば」を言われたのだろうと推測できる。たとえ相手が友人であっても、その「ほめことば」はどこか純粋なものではない(或いは純粋”だからこそ”その無自覚さに問題がある)。主体はどこか侵害してくるような、侵食してくるような警戒心を抱いている。

以下に挙げる、旧約聖書、『オデュッセイア』、『神曲』を下敷きにした歌(いずれも連作「Lilith」に収録)も、それらの作品を知っている者が読むと異化の顔を持つ。

旧約聖書

汝が命名(なづけ)なべて過誤(あやまり)にてアダム、われらはいまも喩もて語らふ

アダムにほかの生物を見せ、そこでアダムが呼んだ名前がその物の名前になったという話が下敷きにある。

それは、さまざまな名前(見方)は男性の視点から(男性に都合良く)作られていることを示すのだ。そのため、それは誤りなのだと言い切る。

・と・に創造(つくり)たまへりーーと聞きしかどそのいづれにも遭ひしことなし

これは創世記の一章二十七節に対応する。知っている者が見れば、「・」にそれぞれ「男」と「女」を入れることができるはずだ。しかし、主体は「そのいづれにも遭ひしことなし」。

ホメロス『オデュッセイア』

白木蓮(はくれん)よ夜ごとに布をほどきつつあなたはオデュッセウスをこばむ
敗北と屈服の差は(燃やさるる星)屈服と承認の差は
たれも追はずたれも衛らず生きたまへ青年よいまここが対岸

英雄オデュッセウスがトロイア戦争の後に凱旋する途中の十年間にも及ぶ漂泊を描く長編叙事詩の、ペネロペの話が下敷きにある。オデュッセウスの不在中に、妃ペネロペのもとに百八人の求婚者が押しかける。男たちに対して彼女は、今織っている織物が完成したときに一人を選ぶと言うが、夜になると解いていた。

このためペネロペは貞女の鑑とされるが、この歌では大勢の求婚者だけではなくオデュッセウスをも拒んでいる。オデュッセウスの婚姻が、「敗北と~」の歌の「承認」にあたるとすれば、それは「敗北」や「屈服」とどう違うのか。

三首目、ここでいう「青年」は求婚者たち、そしてオデュッセウス、そしてわれわれ読者なのだ。

ダンテ『神曲』

わがウェルギリウスわれなり薔薇(さうび)とふ九重の地獄(Inferno)ひらけば

『神曲』では、暗い森に迷い込んだダンテが、詩人ウェルギリウスに地獄(最上部から最下部まで九つの圏で構成されている)を案内されて始まる。その後煉獄を旅するが、ウェルギリウスは次の天国には行けない。彼は、キリスト教以前に生まれた異端者だからだ(ゲーテ『ファウスト』でも、悪魔メフィストフェレスは「古典的ヴァルプルギスの夜」、つまり自分が生まれた時代とは異なる世界に飛ぶことはできない)。そのため、ダンテは永遠の淑女ベアトリーチェに導かれて昇天する。そして、天国の最上層(至高天)で純白の「天上の薔薇」に出会い、この世を動かすものが神の愛であることを知る。

しかし、「Lilith」ではそもそも自分が行く地獄(とその他の各世界)の先達は己であると宣言する。ウェルギリウスだけではなくベアトリーチェも不要であると言っているどころか、神の愛ですら拒んでいるように見える。なぜなら、天国の最上層で出てくる「薔薇」が「地獄」に例えられているからである。「薔薇」がうつくしいもの、愛の象徴だと“慣習”ではされてきた。だが、本当にそうだろうか。九重に開くその花に、「Lilith」では「地獄」を見ることができる。その恐ろしい世界の入り口に、主体は己のみで立っている。そこに、畏れすら抱いてしまうのだ。

十首選・おわりに

しろへびを一度見しゆゑわたくしは白蛇(はくじゃ)の留守をまもる執政
-「借景園」
海底(うなそこ)がどこかへ扉をひらいてるあかるさ 船でさえぎり帰る
-「凌霄花」
塩のごと否認あかるし 陶片にみづからの名を書きて去らなむ
-「アヴァロンへ」
かつてわれらの弑せる王の見つづくる夢の山巓(さんてん)にて復(ま)た逢はな
-「Le Grand Cahier」
みづからのこゑを追ひつつ駆けゆかな星辰もしるべせぬ境域へ
-「転身譜」
丘の上(へ)に老天使翼(はね)をひろげゐてさくら、とひとはそを指さしぬ
-「老天使」
万華鏡銃のごときを構へ世は打ち砕かれしときのみ美(は)し、と
-「ラピスラズリ」
露台(テラス)とは天馬の港 われはその港守にて千年を立つ
-「ラピスラズリ」
わがウェルギリウスわれなり薔薇(さうび)とふ九重の地獄(Inferno)ひらけば
-「Lilith」
なべての詩を遁れあなたを庇ひたきをヘレネ、われさへもパリスの臣か
-「ヘレネ、手をつないでいて」

以上が、僕の『Lilith』十首選である。

三首目、古代ギリシアで行われた「陶片追放」を思わせる。独裁者になるおそれのある人物の名を陶片に書き、その数が一定数に達した場合はその人物を十年追放することができる。主体は陶片に自分の名を記すのだ。上の句の意味が取りづらいけれど、「否認」をしたのが主体なのか別の誰かなのかでまた歌意も異なる。自分がなんらかの疑いをかけられて否認したけれど、それは信じてもらえなかった。どうせここにはいられない、と周りの追放の声に応えるように去るのかもしれない。別の誰かが嫌疑を「否認」した、ととることもできる。明確なのは、主体はもうこの場所からいなくなるということ。陶片の数が一定数になる(他の人たちから追放を命じられる)までもなく、主体は自ら選んで自ら去っていく。

僕は連作「Lilith」が歌壇賞を獲ったときから、もう一度賞というものを信じてみようと思えたし、「ここで闘っている」と示すことが、誰かの心をこんなにも震わせることを知った。闘いは、誰かの為にするものではないのかもしれないし、誰かの闘う姿に心を奪われ、形容することすら、別の暴力であるとも感じる。あらゆる詩のなかで美しいもの・儚いもの・衛らねばならないもの・奪わねばならないもの……などのレッテルを貼られた存在がある。そこから庇うように行動したところで、自分がそれらをさらに傷つけるおそれがあると自覚的でなければならない。

この歌集『Lilith』は、紛れもなくこの世と闘ってきた記録であり、闘って疲れ果ててしまったひとに、今もなお闘いつづけるひとに、灯りを掲げるものに違いないと思っている。

僕はきっとずっと、この世が打ち砕かれるときを待っていた。