荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』について

優先順位がたがひに二番であるやうな間柄にて梅を見にゆく
/「不断淡彩系」

僕が、「あ、買お」と思ったきっかけの一首である。これは、発売前に書肆侃侃房のHPで見た。五首選の、その二番目にあった歌だ。 なんてイメ短歌(イメージ短歌。いわゆるオタクがよくいう「イメソン(イメージソング)」の短歌版である)なんだ……と思った。こんな間柄はいい。じゃあ一番は誰なんだ、一番とはどこへ行くんだ、とか色々考えたくなるが、「たがひに」「二番で」「あるやうな」という距離感。言葉選びのそれぞれがいい。主体だけが相手を、または相手だけが主体を二番に据えているのではなく、「たがひに」。しかもそれが確信ではなく、明言して/されているわけではなく、「あるやうな」間柄。 なんかここで水族館とか行かれたら嫌(個人の勝手な感覚です)なのだが、梅のようなささやかで、でも匂い立つものをわざわざ「見にゆく」なんて、いいじゃないか……と思った。梅が咲くような、まだあたたかいとは言い切れない季節の感じが、この歌における「間柄」の温度感までもあらわしている気がする。 しかもこれは巻頭歌である。 歌集を読んでみて吃驚した。じゃあ、あの五首選ってどんな順番なの? と思った(ちなみに帯にある六首では一番目)。歌に「二番」ってあるから? と思ったが、よくわからない。そのへんは別に特に決まりとかないのかもしれない。 『リリカル・アンドロイド』は一読してずっと春の歌だな、春の歌が多いな、と感じたが、最初の連作「不断淡彩系」で既にほぼ一年の季節がうたわれていた。

貘になつた夢から覚めてあのひとの夢の舌ざはりがのこる春

街にあふれるしろさるすべり忙しない日々に救はれながら私は

まだ誰もゐないテーブルこの世から少しはみ出して秋刀魚が並ぶ

元日すでに薄埃あるテーブルのひかりしづかにこれからを問ふ

どれもいい歌。連作ごとにテーマや主体はあるのだろうけれど、この最初の連作が、歌集を貫く空気感を決めているなぁと思う。特に、起きてから感じる「夢」の存在や、「この世」の不確実さである。それについては後述したい。

イメ短歌

『リリカル・アンドロイド』には、好きなキャラクターやカップリング(バディ)に当て嵌めたい歌が多い。

自分ひとりで探し出せない秋からの出口のやうにあなたが笑ふ
/「空が晴れても妻が晴れない」

むすばれるとむしばまれるの境界はどこなのか蟬の声を見あげる
/「ご機嫌よう瑞穂区」

追伸のやうな夕日がさつきまであなたが凭れてゐた椅子の背に
/「江戸秋雲調」

他意のないしぐさに他意がめざめゆく不安な冬の淵にてふたり
/「蕪と無のブルース」

喪主と死者のやうにひとりが饒舌でひとりが沈黙して寒の雨
/「蕪と無のブルース」

梅の匂ひにまぎれながらも端的に弱みを衝いてくるこのひとは
/「触れると梅だ」

四首目、「他意のないしぐさに他意が」出てくる、ということ自体が発見だけれども、「めざめゆく」というのがうまい。速度というか、じわじわと現実味を帯びてきて、「不安」に繋がる。 五首目、「生者」ではなくて「喪主」なのが、「饒舌」のタイプを自然に規定する。「生者」ならば、その「饒舌」さにはいろいろある。ポジティブな・噂話や揶揄ばかりの・愚痴っぽい感じ……。でも、「喪主」の「饒舌」さは、想像上ではほとんど同じトーンではないかと思う。落ち着いているようにみえて、感情の波が否応なしに見えてしまう。話すことは、ほとんど他者(死者)のこと。これをカップリングのイメ短歌にすると、自然にどちらかの(或いは両者の)お葬式にまで想像が飛躍するので、とてもしんどい(好きな人は好きだろう)。 戻って二首目、他者と「むすばれる」(恋愛的? に成就する、互いの合意を経て共にいることを選ぶ?)ことは「むしばまれる」こととどう違うのか。そうして二人は結ばれましたとさ、というとき、ひとりずつだった(ふたつの)存在が、大きなひとつになるような、あるいはぴったり重なってしまうイメージがあるけれど、この歌ではそこに加害/被害を見ている。「どこなのか」と言っている以上、ある地点を「境界」として別であることができると言いたいのかもしれないし、反語のように「むすばれる」=「むしばまれる」だと言いたいのかもしれない(これは決めかねることなのだけど)。 そして、僕はこの歌にもある「境界」が、この歌集の大切なテーマのひとつだと思っている。

生と死、あるいは現実と夢……その他、のあわい

『リリカル・アンドロイド』は読んでいて怖くなる歌集だった。怖がらせようとしている感じではないのが怖い。この世の境目が分からなくなる感じ。今ここがどこなのか、迷子になりそうな、あるいはもうずっと前からそうなっているような気持ちになる。 連作ごとに主体が全く異なっているとは思えなかった。全く同じだとも思っていないけれど、同じような温度で統一されているように感じた。 地名が多く出てくるのも大きいかもしれない。特に、「誰かが平和園で待つてる」や「ご機嫌よう瑞穂区」では、連作のタイトルからわかるように、主体の生活はほとんど名古屋にある。「名古屋駅」や「瑞穂区」、「昭和区」という場所の名前、愛知の歌人(辻聡之、加藤治郎)の名前や、「コメダ」、「七五書店」、中華料理屋である「平和園」も登場する。 それなのに、歌集全体を読んで僕は、「ここはどこなのか」・「それはなんなのか」と常に問いたくなるような、霧の中にいるような不安さを覚えた。 主体は、この世(生者の世界)にいるのか? いや、この世は既に幾分か、違う世界を含んでいる(しかも、それが「あの世(死者の世界)」なのかも分からない)。

まだ誰もゐないテーブルこの世から少しはみ出て秋刀魚が並ぶ
/「不断淡彩系」

桜の底はなぜこんなにも明るくて入ると二度と出て行けぬのか
/「桜底彷徨帖」

生きることの反対は死ぬことぢやない休むこと夕焼の向うへ
/「空が晴れても妻が晴れない」

この世から少し外れた場所として午前三時のベランダがある
/「この世から少し外れて」

主体と他者の間は、ほとんどないように思える。

わたし以外の誰かであつた一日を終へて誰かの消える青梅雨
/「ご機嫌よう瑞穂区」

誰でもないひとから私になつてゆくけだるき朝が来て花は葉に
/「誰でもないひと」

「お前……タイムリープしてね?」(※「時をかける少女」)と言いたくなるような、主体が一定の時空にはいない感覚。

来てゐないだけで動かせない未来なのかひぐれに花の種蒔く
/「桜底彷徨帖」

数年後の秋のはじめのひだまりに来てゐるやうな足音がする
/「兵隊となるなりゆき」

ぼんやりと不安になっているところに、(生者ではない)何かが出てくるが、なぜかそれは"具体的"なのだ。

咲きさかる花火のあとの暗がりに残つて祖母の霊の手をひく
/「桜底彷徨帖」

壁のなかにときどき誰かの気配あれど逢ふこともなく六月終る
/「ご機嫌よう瑞穂区」

ゐねむりのあひだに何か起きてゐた気配のしんと沁みるリビング
/「江戸秋雲調」

こんな明らかに生者ではないものに対して、「気がする」とか書いてくれない(つまり、「誰かの気配がある気がする」とか「起きてゐたやうな」とか)。そう思うと最初はギャグトーンだと思っていた以下の歌も、なんだか違う見え方をしてくる。

さつきまで見たこともない姿してゐていま急にすみれにもどる
/「誰でもないひと」

これ空調これ螢光灯これテレビこれ不明押すと何が起きるか
/「兵隊となるなりゆき」

ホラーなのか……? でも、「さつきまで」の歌の次はキスについての歌で、これも主体にとっては特に驚くことのない日常なのかと驚く。  知っていたはずのものが知らないものになる恐ろしさ(なのに主体は怖がっていない)。

きみはもう火事ではなくて拇印でもなくてしづかな紫陽花の
/「桜底彷徨帖」

昼過ぎになるまでそして昼顔になるまで妻が泣いてゐたこと
/「この世から少し外れて」

うたた寝のうらがはにゐて苦悶する別のあなたを見つめ続けた
/「みづのかたち」

ほら……『夢十夜』みたいになってきちゃったじゃん……と思った。二首目はどう考えても「そして」で滑らかに繋げられる事象ではない。「妻」の歌はたくさんあって、上質な惚気なのだろうかと思う歌や、かなり現実ベースな歌もあるのに、この歌ではあっさりと人外にまでなってしまった。 『リリカル・アンドロイド』には、このように「この世」の不確実さや、何かと何かの境目が曖昧になる感じが常に横たわっている。「夢」(「ゆめ」、またはそのイメージを連れてくる「貘」)が散りばめられていることも、その感じを強くしていると思う。特に「貘」は、最初の連作「不断淡彩系」の三首目、二番目の連作「誰かが平和園で待つてる」の四首目、最後から三番目の連作「遭難のあとさき」の十二首目、最後の連作「みづのかたち」の最後から二番目に配置されていて、僕はそれを意図だと思った。

貘になつた夢から覚めてあのひとの夢の舌ざはりがのこる春

雪のベランダには齧られてゐた夢のかけらと貘の足跡がある

あでやかなゆめのかけらを貘からの歳暮のやうに残して朝は

不足なのか大食ひなのかわからぬが食べ残しなき貘がゐて冬

始まりと終わりのあたりに同じモチーフがあり、オセロのように間の空間を染める感じがある。歌集全体が長い夢だったのか、と思ってしまうほどに。 『リリカル・アンドロイド』の装幀・装画を担当されているのは唐崎昭子さんで、僕はこの表紙がすごく好きだ。色合いもいいなと思ったし、かわいい! と思って喜んで買った。買った後で裏表紙を見ると、そこには表紙にいたはずの二人はいない。表紙に書かれていた「リリカル・アンドロイド」の文字は鏡文字になっている。ぞっとした。表紙のふたりは、ひとりだけが宇宙飛行士のヘルメットのようなものを被っている。もうひとりが被せた、のかもしれない。どうしてなのかわからないけれど、宇宙飛行士がそのような装備をするのは、その環境(宇宙。地球とは違うところ)で生存を継続するためだろう。このふたりはもしかしたら、生きていく場所をこれから違えるのだろうか。あるいは、このふたりはぱたりと本を裏返しただけで、あるいは鏡にうつしただけで消えてしまう、幻のようなゆめのような存在なのだろうか。 この表紙は、僕がここで書いてきた「怖さ」を、ひょっとして一番よくあらわしているのかもしれない。

さいごに

怖いなぁ、と言ってきたけれど、僕はこの歌集を最初はとてもすらすら読めた。気圧の変化がないというか、激情に晒されて苦しくなることもなかった。それは緩急がないということとは、また少し違う気がする。飽きずに読めた。 テーマを立ててしまったので、そこからは少し外れるけれど良いなと思った歌を引いて、この記事を書き終えたい。

地図で見ればみどりに映える一帯を来てどこまでもつづく暗がり
/「誰でもないひと」

内閣の支持率くだるよりもややゆるやかな暮の坂をふたりは
/「蕪と無のブルース」

同じ本なのに二度目はテキストが花野のやうに淋しく晴れる
/「兵隊となるなりゆき」

夏めいた午後をしづかに座礁してことばの船が入江を抜けず
/「触れると梅だ」

わたくしの犬の部分がざわめいて春のそこかしこを嚙みまくる
/「四畳半の半の永遠」

映画なかばのあれが本心だつたのか淡くあかるい嗚咽のやうな
/「四畳半の半の永遠」 

句点やたらに少なきてがみ悲しみが隙間に入りこまないための
/「四畳半の半の永遠」

テーマから外れた良い歌を、と書いたのに、これら全てがテーマに嵌る気がしてきた。不思議だ。