僕の物語(じゃない) - 『THE FIRST SLAM DUNK』を観て思ったこと

僕の物語(じゃない)- 『THE FIRST SLAM DUNK』を観て思ったこと

『SLAM DUNK』が、僕の生まれて初めて読んだ漫画だった。

今でいう「推し」も桜木花道が初めてだ。

天才とか才能とかに執着し始めたのも『SLAM DUNK』からだし、「バカで経験が浅いのに才能だけがどうしようもなくある」人間と、「ずっとその〇〇(スポーツ)を愛し、努力し、故に孤高だった」人間の邂逅が好きなのも、なんなら赤と黒の組み合わせが好きなのもそうだ。

『SLAM DUNK』に人生を変えられた人間はたくさんいるだろう。

それは、『SLAM DUNK』が「素人」の桜木花道の物語だからだ。

『SLAM DUNK』は「バスケットボール」を知らない読者を巻き込みながら、その圧倒的な画力と物語の構成によって、凄まじい熱狂を与えてくれた。桜木花道と僕は、確かに共に歩んでいた。

その意味で、『SLAM DUNK』は僕の物語だった。……と、誰もが思っていたんじゃないだろうか。

『THE FIRST SLAM DUNK』の制作発表の報を得たとき、僕は心底動揺した。その後に発表された、当時のキャストからの変更などの情報、それに対する落胆を、見ないように努めた。

やめてくれ、と思った。

『SLAM DUNK』は僕の物語だから。

『SLAM DUNK』について今更言及されることは、もう成長しない自分の肉体を内側からべたべた触られるくらい気分が悪かった。

あらゆる反応や情報を遮断した。楽しみに聴いていた内山昂輝さんのラジオも、『THE FIRST SLAM DUNK』の話が出ると知り、内山さんの丁寧な注意喚起を聴き終わってから音声を止めた。

観に行くのに時間がかかった。

好きな作品を、万全の状態で観たかった。体調が悪いとか、寝不足とか、満腹だったとか空腹だったとか、そういう心身の状態に左右されたくなかったから、日を選んだ。

魂にかかわることを、精神と肉体が邪魔していいわけがない。

生まれて初めてプレミアムシートに座った瞬間、涙が出てきた。もう二度と戻れないと思った。

見慣れない景色。「沖縄」の文字。宮城リョータの軌跡。

どうしてこんなことができるんだろう、と思って、嗚咽混じりに泣いていた。泣き続けた。

『SLAM DUNK』は、桜木花道の4ヶ月間の軌跡の物語だった。素人に否応なく引っ張られるバスケかぶれたちの勇姿。彼の諦めきれない、だからこそ苦しく、賛否両論があるだろう山王戦(たとえば、『ハイキュー!!』とは違う、主人公への監督の対応)。

原作が、「天才」桜木のリハビリのシーンで終わるのは、あまりに必然なのだ。

桜木花道の、僕の、『SLAM DUNK』はどこにもなかった。

頭が割れるかと思った。早くここから出してほしかった。席についたときの覚悟は消え去ってガタガタ震えていた。今ならまだ間に合う。何もかもが変わってしまう。

家族構成が丁寧に描かれている作品ではないから、宮城だけが謎に包まれていたわけじゃない。それでも、宮城がどうやってここまできたのか、知らなかった。知らなかったことすら。

宮城の彩ちゃんへの恋心が削られていて驚いた。

『THE FIRST SLAM DUNK』における彩子さんと宮城の関係は、片思いというよりも「戦友」に近かった。試合前夜に交わされた会話が、宮城の「怖いときは手を隠す(ポケットに入れる)」癖を、文字通り裏返した、「苦しいときには手を見る」ことを約束させた。

「No.1ガード」。

7番を背負う、No.1ガード。それが、宮城リョータだ。

原作で仙道に告げた、「俺ならいつでも止められると思ったかい?」などの台詞が彼の矜持を、三井のグループとの間で起きた2回の大きな喧嘩(7, 8巻にあたる。それは丸ごと削られていた)を経てもチームプレイに影響させない器の大きさを示していた。

そして、山王戦のゲームメイクを宮城が担っていたことを、20年以上ぶりに理解した。

『SLAM DUNK』で彼は後に湘北のキャプテンとなるのだが、そこまでの線がはっきりと引かれていたのだった。それ以降の未来にまで。

宮城と三井が湘北以前に出会っているシーンは、正直、相当「ズルい」と思った。そんなの……言葉遣いが間違っているかもしれないが、「関与しようがない」。

再会の際に、三井は宮城のことを忘れていて、だから眉毛から読み取れる反応的な「態度」、そしてバスケ部で期待されているという点に難癖をつけたのだけど、宮城は気づいているから変化に対して言及する。長い髪の毛だ。どちらも外見に対して言及をしているのに、そこで明らかに両者が何に怒り、失望しているのかが分かるシーンだった。

宮城と流川のふたりでの会話や、沢北の試合前と試合後のシーンは原作にはなかったところだから、脳がバグを起こすかと思った。

知っているのに、知らない話。

『SLAM DUNK』で大きくコマを割いたところや文字にしっかり起こしたところを、さりげなく流したり、敢えて小声で処理したりすれば、当然原作を知らないと分からないところも生まれてくる。最後に桜木が流川からのパスを受ける前になんと呟いたのか、に顕著だと思う。しかし実際は、試合の中で誰も聞き取れなかっただろう言葉が、漫画だったから僕に聞こえただけなのだ。

そういうところに作り手の意地や意志を感じたし、これは僕の知る『SLAM DUNK』ではないのだから、いいんだと思えた。

その取捨選択が、眩しかった。

『THE FIRST SLAM DUNK』の画、音楽、モーション、それら全てが懐かしく、新しく、僕の心は粉々に砕けた。

二度と戻れないところまで連れて行ってくれた。

『THE FIRST SLAM DUNK』は僕の物語じゃなかった。それが、こんなにも嬉しいなんて。