坂井ユリ「おもき光源」(『歌壇』2020年2月号掲載)から辿る歌たちのこと

『歌壇』2020年2月号を読んで、坂井ユリさんの連作について何か話したい、書きたい、と思った。坂井さんは「遠泳」のメンバーだから、内輪で褒めていると思われたら嫌だなとか色々考えたけれど、とにかく記しておくことにする。僕の自意識よりも、坂井さんの歌が広まることの方が大事だなと思うので……。

第31回歌壇賞候補作となった坂井さんの「おもき光源」は、(審査員の方々が読まれている通り)慰安婦問題を扱っている。その問題が具体的に描かれるのは十一首目からだ。一首目は、

おおかたを雨で過ごせる七月に無数の目玉ひらく紫陽花

で、時間と天気を含めた主体まわりの空間が提示される。まだ雨粒が残る紫陽花は「無数の目玉ひらく」ようだ、という。いきなり怖いしグロテスクな始まり方をする。

そこからの連作の流れを追う。以下、括弧内を連作の中の順番とする。

人の無きことを訝るずぶ濡れの森林墓地を通り過ぐとき(2)
自死多き国と思えば(花筏)バスはいつもと逆に揺れだす(7)
街路樹が街路を侵していく夏よ精液めいた匂いをさせて(8)

二首目の「森林墓地」、七首目の「自死多き国」、八首目の「侵す」・「精液めいた匂い」など、不穏であり生々しい感じが続く。

分けるとすれば、八首目までがこの連作の第一部であると思う。

着床をしづらいことを言われた日むしろ安堵に泣いたことなど(3)

で、(僕は主体のことだと読んだが)女性の肉体を持つことへの違和感みたいなものがあるのだな、と分かる。そんな主体が九首目の

一文字の姓をもつ人が近いよ、と港の位置を教えてくれる

で移動する。この歌から、この連作の芯である慰安婦問題を示したものが多くなるため、僕はここからをいうなれば第二部として読んでいる。

食いしばる歯のごとく見ゆ強制をうけた女性をあらわす数字(11)
紙袋をかぶせられたひとがいてかぶせた人は誰だったのか(12)
どの舌も這うたび肌は焼けていたずっと心は焼跡なのに(13)

鮮烈で、痛みがあり、圧倒されるような並び。

僕はこういう歴史的な問題を短歌で扱うことは必要だと思いつつも、それは非常に難しいことだと思っている。作品としての詩的さと、その問題への切実さのバランスがうまくとれないのだ(「バランスをとる」と言うと、かなり恣意的な、操作する印象になるけれど、どう言っていいものか分からない)。詩的さを優先すれば問題への意識にどこか嘘のようなものが含まれてしまうような気がする。だが問題を扱うからには、歌として人の記憶に残るものである方がいい……。

その均衡を、僕はこの「おもき光源」に見た、のである。

あ、ほら、島から不知火が見える ように私に加虐欲あり(19)

この十九首目を読んだとき、この連作が慰安婦と同じく「女性の身体」を持った主体の、「被害」への視点だけを描くものではないのだと驚いた。加害が決して歴史的なものとして、外側から見ただけのもので終わっていない。主体から断絶されていない。被害を表現することは加害側をも映し出すことだけれども、その加害の立場に自分も立つおそれがあると主体は気づいている。それが燃え盛る火のようにあからさまなものではなく、不知火のようにおぼろげであったとしても、主体は確かに感じているのだ。

僕はこの十九首目から第三部だと思って読んでいる。第一部よりもより深く、肉体について考えながら進む。

ひらいて、と言われるたびに水鳥が水に喘いで飛べないでいる(22)
肉体を憎んでしまう 包丁を引けばトマトの切断面は(23)

この連作は、

秋という錘をのせておもむろに町はひとつに傾いてゆく

という歌で終わる。七月から始まった連作に、秋が深くなっていく流れだ。綺麗でもあり、僕はこの終わり方がすごく怖いと思った。この歌は自立しているし、よい歌で、たぶん季節の点さえクリアすれば他の連作に置いてもいい感じの歌だ。ただ、僕はこの連作の最後に置かれるとどうしても、「おもむろに町はひとつに傾いてゆく」が思想的なものを示しているように読めてしまう。この歌で傾かせるのは「秋」という錘なのだから、そんなに不穏でもないのかもしれない。けれど、「傾いてゆく」だけではまだ耐えられたのが、「おもむろに」と「ひとつに」を重ねられると更に怖くなり、だめだった。だめというのは僕のSAN値みたいなものが。オープンエンディングなのかもしれないけれど。

坂井さんの歌といえば水の印象が強い。水鳥の歌はたぶん他に三首くらいある(のだけど、集めてみても有益なことが言えそうにない)。

いつか死にいつか火葬にされること言えば鯨の瞳(め)を向けてくる/「水棲となる」 『京大短歌』19号
雨が内耳にたちこめるとき忘れずにいたよ墓場へ泳ぐ鯨を/「さざんか」 『京大短歌』20号
水母から光があふれだしていて(エーテル?)ながく眺めてしまう/同上

水や海、または水棲のものが持つ静けさや暗さ。そこでは生きられない人間が感じる畏れや怖さ。

女性の肉体を扱った他の歌は、

蠟燭の白さの腕に抱かれても孵る卵がわたしにはない/「光の堰」 『京大短歌』21号
虚しさの行き場のない雨 指を折り排卵周期を数えて過ごす/「水棲となる」 『京大短歌』19号

僕は肉体というものを、よく分からないし恐ろしいと思う。その形が少し食べたり食べなかったりするだけで変わるのも、形によって人から言われることが違うのも怖い。怖いからこそ、分からないからこそ書き続けるというひともいるだろうが、僕はあまり表現したくない。だから坂井さんのように歌にして、今回の歌壇のように強度のある連作にできる人に、ほとんど畏怖に近い感情を待っている。

坂井さんの歌で他に好きなのは、

ひとりでも生きられるから泣きそうだ 腐り始めの米は酸っぱい/「水棲となる」
あれはね、と光まみれの堰を指す あなたと光の息継ぎを見る/光の堰
できるだけやさしく覆う馬の眸 そんなに早く来なくてもいい/「目を閉じて」 『遠泳』

「あれはね、」の歌の異化(神野紗季さんの句集『光まみれの蜂』の「ブラインド閉ざさん光まみれの蜂」を思い出す)が好きで、美しいとされるものにあなたと共に「まみれ」てしまう様は、やはり異化好きには見逃せない。ちなみに「ひとりでも」の歌が歌会に出されたとき僕もその場にいて、よく覚えている。廣野翔一さんが「何食っとんねんって感じなんですけど」と評し始めたことも同時に思い出す歌である。

そういえば「おもき光源」の一首目を読んで思い出したのが、

紫陽花を頭のように撫でているゆっくりと逢いたさを殺して/「鳥籠の樹」『羽根と根』創刊号

である。「撫で」る、という慈しみの表出として捉えられるような動作の裏に、「逢いたさを殺して」いるところが不穏でいい歌だ。確かこれも歌会に出た。「紫陽花が頭に例えられているの新鮮でした」みたいなことを当時の僕が言ったら、藪内亮輔さんが「別に珍しくなくて500首くらいあるんですけど、」と評し始めたことを思い出す。

思い出話になってきたので終わります。つまり随分昔から、僕は坂井ユリさんの歌が好きってこと。是非『歌壇』、読んでください。