岡本真帆『水上バス浅草行き』

『水上バス浅草行き』

岡本真帆さん(以下まほぴさん)の『水上バス浅草行き』という歌集が、ナナロク社さんから刊行された。3月21日のことだ。次の週には重版が発表され、累計6000部というので本当に驚いた。最近は短歌の本で発売前に重版がかかることもあるけれど、2刷で累計6000部というのはかなり数が多いのではないか? 出版社や歌人にもよるだろうが。

『水上バス浅草行き』の内容は勿論、僕はその周辺のことにも興味がある。

たとえば売り方。Twitterのアイコンつきの「あの短歌のひと」という言葉が入ったポップも、この歌集が今まで想定されてきた歌集の購買層とはまた別の、より広い範囲に目に留まるようになっている。

まほぴさんは歌集に収録されている歌を毎日のように複数首ツイートする。歌集の販売ページで5首選が載っているのは見慣れているが、Twitterで作者本人がどんどん開示していくのはびっくりした。「中身は読んでのお楽しみ!」というわけではないんだ、と。Twitterだけでもまほぴさんの歌はかなりの数が読める。それでも、「歌集」が欲しいと思える仕組みを作らなくてはいけない(売ろうと思うのならば)。

サイン本や刊行記念イベントも効果があるが、『水上バス浅草行き』は単純に、「本」としてすごいのだ。

持ち運びやすい大きさで、表紙もかわいい。中にもたびたびイラストのページがある。歌集を開くといきなり若草色の紙に歌が書いてあり、通常の1ページ目にあたる歌、

3、2、1、ぱちんでぜんぶ忘れるよって今のは説明だから泣くなよ

までの助走になっている。その後でタイトルのページ。映画みたいだ。

そして、あとがきや奥付のさらに後ろの桃色の紙に、

教室じゃ地味で静かな山本の水切り石がまだ止まらない

という歌がある。この歌が面白い、という感覚に加えて、この歌の配置という〈仕掛け〉が、この歌の引用の数を伸ばしているように思う。

これらの歌の配置やデザインについて、まほぴさんに「本当にすごいです、まほぴさんが考えたんですか?」とお聞きしたことがあるが、「編集さんや装丁家さんと本のあり方について話す中で、デザインが決まっていった」とのことだった。アイディアがこんなにも綺麗に形になるなんて素晴らしいことだと思う。

まほぴさんには読んですぐ読書カードとポストカードを送らせていただいたのだが、このブログでも何首か感想を書きたいと思う。

ちなみに、この読書カードもすごくて、5首選を自動的にすることになる。僕は読書会をたびたび開くので分かるのだが、選をせずに行うのと、して行うのとでは会の充実度が全く異なる。話の方向性も決まるし、その人が何を重視しているのかも分かってくる。そもそも、選をすることで読みの深さが違ってくるので、その後に行う会も色々な話が通りやすくなるのだ。選をすると歌は記憶に残る確率がぐっと上がる。

3首評

気がつけば悪役だった二人して腹を抱える土砂降りの中

3首の連作「悪役」の一首だ。僕は連作はもっと多い数を読みたい! 5首以上ないと一連として物足りない! と思うのだけど、この3首は完全に同じ設定で作られていることが分かる(でももっと長く読めるなら読みたい……)。

「気がつけば」と書いてあるので、最初から「はい、あなたは悪役です」と言われたわけではなく、生きていたら、あるいは即興劇を演じているうちにそうなってしまった。劇にもよるだろうが、悪役は集団ではない限り一人の方が話が分かりやすい、勧善懲悪がやりやすいと思う。けれど二人だった。「気がつけば」や「腹を抱える」あたりに、予想できなかったことへのおかしさがこみあげて来る感じがある。なんかもうめちゃくちゃだなぁ、と思っているだろう、土砂降りだし。

ここでの「悪役」には高笑いではなく爆笑が、孤独ではなく連帯がある。それが非常に明るい感じがして好きだ。

ここへ来て、滅亡したら。陸橋は徐々にカーブの形に曲がる

最初、「ここへ来て、滅亡したらどう?」というニュアンスでとっていた。一読して、いやいや、普通は「滅亡したら、ここへ来てね」だろう、と読み直した。

最初の読みは、「滅亡」という大きな〈終わり〉を相手に提案しているのだけれど、「一度生まれ直したら?」くらいの感覚だ。「ここへ来て」と言っているのだから、言っている相手もその場にいるだろう、そして見届けるだろう。

次の読みは、「滅亡」が本人が本人ではなくなってしまう、個人としての崩壊なのか、その町や地球・人類といった大きな規模の〈終わり〉かは分からないが、その後、「ここへ来て」という約束だ。滅亡した後、「ここ」へ来られるかなんて正直分からない。来られないことだってありえる。でも、「滅亡」の前にこういった約束ができることが一種の希望だ。

〈終わり〉のそのとき・そのあとに孤独ではない未来をこの歌から覗くことができる点が、最初の読みと次の読みで一致している。

「陸橋は徐々にカーブの形に曲がる」は変な言い方で、既に陸橋は曲がっているわけだけど(そういう設計だ)、今まさに少しずつ曲がっているようにも見える。空間や物がねじれていくような、SF映画みたいな映像が浮かんでくる。それは確実に曲がっているのだ。「滅亡」なんて大それた架空の話かと思ったけれど、この下の句が、「もしかしたらもう滅亡へと、確実に進んでいるのかも」と思わせる。

あの日から僕ら互いの遺失物 風が強くて聞こえなかった

「遺失物」は落とし物のことだから、僕らは互いの、身もふたもない言い方をすれば「占有者」だったのだけれど、「あの日」を境に何らかの理由で離ればなれになってしまった。仲違いとか、もしかしたら死別とか、なのかもしれない。辞書を引くと「拾得者はそれを持ち主に返すか、または警察に届けるかしなければならない」とあるが、きっとどちらもできないのだろう。返りも帰りもしないし、それを互いに分かっている。「遺失物」であると分かって、迎えにも来ないのだから。

「風が強くて聞こえなかった」にはおそらく「相手の言葉が」が省略されている。風が強くて大事な言葉が聞こえなかった。だから別れてしまったのかもしれない。そうだとしたら、「あのとき聞こえていたら、何か違ったのかも」と思うだろう。けれど、僕は聞こえなかったのは、何も特別な言葉ではないと思う。本当に何気ないことだと思う。それを聞けなかったことを「風が強くて」と理由づけしていることのほうが重大ではないか。風が止んでも聞き返さなかったこと、あるいは聞き返したけれど「いや、なんでもないよ」と言われ、結局相手も伝えなかったことのほうが。

もし、この「聞こえなかった」言葉が、別れる瞬間の決別の言葉であるならば、聞き返す機会がないことも頷ける。それなら風が吹こうが凪いでいようが、「遺失物」になることは変わりがない。ただ、その場合は「互いの」なんて言い方は傲慢で、この主体が相手の「遺失物」(それも意図的に落とされた)なだけなのだ。

だから、僕はこの「聞こえなかった」言葉は、別れる瞬間のものではなく、何気ないもののほうがよいと思う。

『水上バス浅草行き』から3首評をしてみました。今後もまほぴさんの活動、そしてナナロク社さんのお仕事を楽しみにしています!