最近の読書 - 小澤實句集十句選
「澤」
相子智恵『呼応』を拝読し、その凄さに思わず句友たちに連絡した。二月中に読書会ができればと思うし、このブログにも感想を書きたいと思っている。相子さんは「澤」という俳句結社に所属されていて、その主催である小澤實さんの序文、そして師についても書かれている相子さんのあとがきにも心を打たれた。
俳句に取り組んで一年と少しだが、「澤」の名前はかなり初期から知っていた。友人とのご飯会に招かれたときだったので、俳句に取り組む前だったのだろう(たくさんの人と集まれているのだから)。その場にいた俳人が「澤調」の話をしてくれたように記憶する(どうしてご飯会で「澤調」の話になったのか、まるで思い出せない)。そのとき僕は、短歌にもリフレインは多用されるけれど、名を冠したものはないので興味深いと思い、その場で調べて、
子燕のこぼれむばかりこぼれざる
を、「これが澤調ですか」と訊き、「ああ、そうですそうです。……いい句だな」と返されたことを覚えている。俳人は俳句が好きなのだな、とこのとき妙に嬉しかった。
「澤」の名前は僕の日常に何回も点灯し、そのたびに意識してきた。
『現代俳句の海図』
蕪村の
ところてん逆しまに銀河三千尺
から俳句を始め、波郷が寺田木公『白松』の序文に寄せた、
然しながら作者は、自分の俳句が今日の俳句として如何なる位置を占め、将来どういふ運命にむかふかなどといふ考には全く煩はされないであらう。私は著者に永くさうあつて慾しいと思ふ。俳句は風雅である。風雅に評価の求める心のあらうわけがないからである。
という言葉に感動して俳句をもっと深めてゆこうと思った。人物像を追うのが好きなので、村山古郷の『俳壇史』シリーズについて一年目で教えていただけたのも僥倖であった。
石田波郷全集(全11巻)を買い揃え、読み進めていると、波郷に夢中になるのと同時に「波郷はもういない」ということを寂しく思った。一年間で読んできた句集で今生きている人が出したものは数冊だった。勿論それも無駄ではないが、現代にどんな俳句があるのか、俳句の結社がどういうものかというのはさっぱり分かっていなかった。
そんな中、「小川軽舟『現代俳句の海図』という本が面白いですよ」と句友に教えてもらい、やはり絶版だったのだけれど、わりと安い値段で買うことができた(短歌もそうだが、短詩系の本はすぐに絶版する……)。小川さんの十人の俳人への視点も含め、五十句選も読める贅沢な一冊だった。どの俳人にも好きな句はあった。
あと戻り多き踊にして進む
飛込の途中たましひ遅れけり/中原道夫
かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す
サヨナラがバンザイに似る花菜道/正木ゆう子
数ふるははぐくむに似て手毬唄
しぐるるやほのほあげぬは火といはず/片山由美子
デートには行く気でをりぬ春の風邪
しやぼん玉消えたくなって消えにけり/三村純也
春の水とは濡れてゐるみづのこと
裸にて死の知らせ受く電話口/長谷川櫂
春の山たたいてここへ坐れよと
うごかざる一点がわれ青嵐/石田郷子
たはぶれに美僧をつれて雪解野は
みづうみのみなとのなつのみじかけれ/田中裕明
ストーブを蹴飛ばさぬやう愛し合ふ
雪まみれにもなる笑つてくれるなら/櫂未知子
水打つて遠くに犬の嚙みあへる
手をつけて海のつめたき桜かな/岸本尚毅
櫂未知子さんや岸本尚毅さんの句集は人から借りてノートに書き写しているので、おさらいのような気持ちだったが、人の選や文章を見ると、「こんないい句があったのか」とか「そんな話があったのか」と嬉しい驚きがあった。
小澤實さんは小川軽舟さんの兄弟子なので、文章もかなり近い位置から書かれているように思った。僕は「○○集」が出たとき、その執筆者が平等に書く必要はさほど感じていない。むしろ執筆者の主観が強く出るからこそ、「○○集」は面白くなる(後世の人からすれば、たくさんの「○○集」から扱いの違いを自分で均す作業が大事だと思うので、「○○集」がある時代に一冊だけというのは困る)。そういう意味で最初からバイアスがあったのかもしれないが、文章はともかく句は冷静に読めたと感じている。ただ、
バーの扉の戻り強しよ三鬼の忌
入る店決まらで楽し冬灯
の句を見たとき、思わず泣けてきた。三鬼といえばバー(西東三鬼『神戸』の影響)で、三鬼忌には全ての俳人がバーの句を作りたくなるだろう。だから、取り合わせが珍しいと思ったわけではない。僕はこのバーを知っているのだ。確かに扉の戻りが強い、このバーを知っている。なんなら一回ぶつかったことがある。僕はこの世にあるもの、物を凝視して、ただそのことだけを言う俳句を愛する。共感を求めない、人に寄り添わない句を愛する。ただ、このバーは僕の中に存在しない。存在しないものを、僕は知っていた。ありもしないものに僕はぶつかったことがある。その強烈な記憶の動揺。
入る店が決まらない。寒空の下で、「どこ行く?」と話してばかりで進まない。その時間が楽しいという感覚を、僕は確かに知っている。今度こそ本当……でも、どうだっただろうか。あの楽しさを、俳句で言うことができるのか。「決まらで楽し」のつづめ方に感動した。「楽し」と「冬灯」の音の重なりも見事だ。
「バーの扉の……戻り強しよ……三鬼の忌? 入る店……決まらで楽し……冬灯? 嘘だ……」と通話中に思わずつぶやくと(※僕はすごくいいものに出会ったとき、「こんなにいいものがこの世に存在するはずがない、これは幻、嘘である」という意味で「嘘だ」と言ってしまう、悪癖といえば悪癖がある)、「小澤實さんの句集を買いましょう」と処方箋を記入する医師のごとき口調で言われた。確かにそうするより他なかった。〈日本の古本屋〉にあったので、『セレクション俳人 小澤實集』と『瞬間』をその場で買った。届くと思われる日、僕は予定を一日空けていた。
十句選
一日で上記の二冊を読んだ。付箋がたくさんついた。句友たちとのSlackに十句選を悩みながらも送ると、「よい選句ですね」と褒めてもらったので嬉しかったので、ここにも記しておこうと思う。
第一句集『砧』
かげろふやバターの匂ひして唇
雨中なる洗濯物も秋の暮
ざりがにあまた中の二匹の争へり
羅や運河にうつる橋の裏
死体役の俳優に蟬鳴きにけり
浅蜊の舌別の浅蜊の舌にさはり
「はい」と言ふ「土筆摘んでるの」と聞くと
芋虫のまはり明るく進みをり
くわゐ煮てくるるといふに煮てくれず
わかれがたしよホツトレモネード飲めど
「死体役の~」は、白水郎の
ゆく春や喜劇の中に死ぬる役
を思い出した。
浅蜊の句のような凝視の末の句もあれば、ホットレモネードの句のように心情に集中した句もある。
第二句集『立像』
子燕のこぼれむばかりこぼれざる
夏芝居監物某出てすぐ死
君胡麻擂れ我擂鉢を押さへゐむ
二人ゐて二人悴みゐたりけり
遠足バスいつまでも子の出できたる
天の川内臓すべてつながれる
貧乏に匂ひありけり立葵
友死すや啜りて牡蠣のうすき肉
脱ぎしシヤツ振りサツカーの勝者たり
冬木立別るるまへの顔あげよ
芭蕉の読書会をしてすぐだったので、「君胡麻擂れ」の句が「君火を焚け」の句と響き合う感じがした。本当に遠足バスから子どもはいつまでも出てくるし、貧乏には匂いがある。
第三句集『瞬間』
林中にわが泉あり初茜
バーの扉の戻り強しよ三鬼の忌
立春や雪を歩きて雪に酔ふ
渇けるは怒りに近し夏蕨
雪礫握り置きけり雪の上
神護景雲元年写経生昼寝
春風や辛子滲めるカツサンド
たれ刷いてうなぎの艶やさらに刷く
秋風や買ひたる古書に古葉書
入る店決まらで楽し冬灯
先に挙げた二句も、十句選に入れた。カツサンドの句も同じように、「自分はそれを知っている」という衝撃があった。
『セレクション俳人 小澤實集』にある、「俳句は謙虚な詩である」という文章も非常にわくわくしながら読んだ。僕は短歌をやってきた身として俳句を読むとき、「関係性」というものを一つのハーケンのようにしてきた。僕は短歌では人と人とが分かり合えないけれど関わり合う、といったものを好んできた。俳句にも「人」が出てくる句があり、はじめはそういったものが読みやすかった。けれど、俳句では何も起こらなくていいし、誰も出て来なくてもいい。関係を色濃く映さなくてもいい。「個性を抑えるべき詩」という言葉に、深く頷いた。
最初は十句選のみを書いて終わろうと思ったが、かなり長くなってしまった。これが最近の僕の読書の記録、俳句に関する考えの変遷だ。