芭蕉おはなし会まとめ

芭蕉おはなし会

こちらに書いた通り、1月30日に「芭蕉おはなし会」を行いました。俳句を始めたての方にも参加していただいて、2時間ほど芭蕉の句について語りました。

それぞれ10句選をして発表し、斉藤志歩さんと僕はレジュメも作成させていただきました。

10句選

()内は頁数

あら何ともなやきのふは過てふくと汁(34)

愚案ずるに冥途もかくや秋の暮 (43)

  濁子じょくしが妻のもとより冬籠のしろときて進ぜければ
火を焚いて今宵は屋根の霜消さん (75)

はつゆきや水仙のはのたはむまで (92)

  おなじ所にて
おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉 (140)

暑き日を海にいれたり最上川 (181)

ねぶか白く洗ひたてたるさむさ哉 (248)

いきながら一つにこほ海鼠なまこ哉 (280)

秋深き隣は何をする人ぞ (307)

別ればや笠手に提て夏羽織 (322)

有名な句も多いですが、有名だからといってとらないのも何か違うなと思い、10句選に入れました。「あら何ともなやきのふは過てふくと汁」に見える余裕、「火を焚いて今宵は屋根の霜消さん」の見えないところにまなざす力、「おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉」や「いきながら一つに冰る海鼠哉」などの句には、「確かにそうだ」と確かに納得できる、とらえたものを的確に言葉にできる技術を見ました。

パターン

僕は「上五+や」で、かつ「(上五が)季語ではない」句を「珍しいもの」として蒐集しているのですが、芭蕉の時代にはかなり在るように思いました(「季語+や」を上五に置く一つのパターンができるよりも前の人物だからだと今は考えています)。

古池や蛙飛こむ水のをと (89)

不性さや抱起されし春の雨 (232)

たのしさや青田に涼む水の音 (319)

以下は、今まで僕が蒐集してきたパターンの一部です。

中年や遠くみのれる夜の桃 (西東三鬼)

人の訃やネクタイ替へて秋風に (山口青邨)

父の死や布団の下にはした銭 (細谷源二)

雰囲気や夕日の幅に塵の浮く (佐藤文香)

先生やいま春塵に巻かれつつ (岸本尚毅)

楽しさや小銭使うて野分して (〃)

純愛や浅蜊に砂を吐かせてゐる (山下つばさ)

この中でも「楽しさや」と「雰囲気や」では「や」の切れ字に対する感覚が違う気がします。「楽しさや」には「季語ではないものに「や」をつけてみよう」といったような感じは受けず、フラットに句が成立していると思いました。「雰囲気や」には、明らかに上五に句の盛り上がりが設定されていると感じるのです。  

一句鑑賞

君火をたけよきもの見せむ雪まるげ(92)

掲出句は其角編『続虚栗ぞくみなしぐり』(貞享四年・1687年刊)所載。句意は「君は火をいてあたたまっていてください。わたしがいいものを見せてあげましょう。雪の大玉を作って」。中国の詩人、白楽天の詩「雪月花せつげつか」の時最も君をおもふ」の影響もあって、詩歌をたしなむものにとって、雪の降る日は友のことを思う日だった。まさにそんな雪の日に、曾良が訪ねてくれたことを喜び、芭蕉は弾むように掲出句を詠んでいる。

曾良の遺したメモを、曾良の甥、周徳しゅうとくが整理してまとめた『ゆきまるけ』(元文二年・1737年成立)という書がある。その巻頭に掲出句が掲載されている。その前書には次のようなことが書かれていた。「曾良は芭蕉庵の近くに仮のすまいを定めて、朝に夕にわたしが訪ねたり、曾良に訪ねられたりしている。わたしが食事を作るときには、曾良が柴を折って焚いて助けてくれる。茶を飲もうという夜には、曾良が厚い氷を割ってくれる。曾良の性質は世を避けて静かに暮らすことを好み、わたしとも極めて親しい。ある夜、雪が降った際に訪ねられて、次の句を詠んだ」。 こういう前書があるので、「君火をたけ」には、単に暖をとるだけではなく、「飲食の準備もしてくれ」という意味も籠められていよう。芭蕉の肉声が聞こえる。芭蕉は曾良を「君」と呼んでいたのだ。辞書に見える「男の話し手が同輩以下の相手を指すのに使う語」であるが、とてもみずみずしい感じがある。そして、「よき物見せん」と続ける。「よき物」も芭蕉が口にしたことばだろう。いったい何だろうと、曾良に期待を持たせる。そのあと、それは雪をまるめて作る雪の玉だよ、と種明かしをしているのだ。この句文には雪と友情とに興じる、少年のような芭蕉がいる。

note「ほんのひととき」より

一読して好きだった可愛らしい句ですが、白楽天の詩の影響があったとは知りませんでした。蕪村にも李白など漢詩から影響を受けて作った句がありますが、この時代の句を理解するときに漢詩もカバーできていた方がスムーズなのか、と途方もない気持ちになりました。   

芭蕉の句の作り方

芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴へる美しさと耳に訴へる美しさとの微妙に融け合つた美しさである
芥川龍之介『芭蕉雑記』

これにはなるほどなと思う反面、全ての詩が「目に訴へる美しさ」と「耳に訴へる美しさ」がある──といより、詩とはその二つを兼ね備えたものの名称ではと思うなどしました。

不性さや抱起されし春の雨 (232)

この句は、『俳句界』2月号特集「俳句の調べ」にて、 岸本尚毅さんも「調べが美しいと感じる名句 20句と所感」にとりあげていました。

虚栗みなしぐり調

夜ル竊ニ虫は月下の栗を穿ツ (42)

若いときの芭蕉は多少違っていて、貞門風や談林風の俳諧で過ごしてきた後の、三十歳代後半には新たな模索を始め、虚栗調と呼ばれる漢詩文的色彩の強い破調の句を作った時期がある。これは当時の流行でもあったのだが、それでも他の作者に比べると、句の持つリズム、調べというものを大切にしているように思われる。
『俳句界』二月号 - 大輪靖宏「芭蕉の言説から見る調べ」

芭蕉の「調べ」や句の作り方について分かる言葉は以下の通りです。

「句、調はずんば、舌頭に千転せよ」(去来抄)

「発句は取り合はせ也。二つとり合はせて、よくとりはやすを上手と云ふ也」(篇突)

「発句は汝がごとく二つ三つ取り集めするもにあらず。こがねをうちのべたるごとくなるべし」(去来抄)

→取り合わせは句を作る上で有効だが、そればかりせずに素材そのものを率直に表現するように。

「発句は頭よりすらすらと言ひ下しきたるを上品じょうぼんとす」(去来抄)

「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中に言ひ留むべし」(三冊子さんぞうし

こういった言葉は、今も俳句の本に引かれているのを見ます。最近買った俳句の総合誌にも芭蕉について言及しているコーナーがあり、短歌よりもかなり過去の作品への言及が根強く、ルーツへの意識があるように思い、それも面白かったです。