小宮山遠 第一句集『喪服』①

書き残すということ

小宮山遠に関するブログを書いてから一年ほどになる。

俳句を始めて一年と少ししか経っていない人間が、俳句について書き残して何になるのだろうと何度か思ったし、書くまでもないが集めた資料を然るべき人に渡し、原稿料を支払った方がよほど有益なものを書いてもらえるだろう。

しかし、書きたいと思った心まで人に譲ることはできない。自分が書き残したいと思ったのならその心で自分が書くより道はなく、書けるまで成熟を待つこともできない。書けるようになったかは、書くことでしか確かめられない。いつかここに書いたことが未熟な文章だらけだと思ったとしても、書いたこと自体が過ちになるわけではないと思う。

どれほど優れた俳人も、誰かが語り継がねば残らない。その「誰か」の一人になりたいと思う。

『喪服』までの道のり

先日、俳句同人誌「道標」の第42・43・54・56号を「日本の古本屋」で見つけた。著者欄に「古沢太穂・栗林一石路・杉崎ちから・石塚真樹・三宅一人」と並んで「小宮山遠」があったので、検索に出てきて買うことができた。60年ほど前(1958年~1961年4月の号)の俳句同人誌を買うことができる、という発想がなかった。遠は多くの同人誌に参加したので、検索の仕方を工夫すればもっと資料が見つかるかもしれない。

届いたものを確認したところ、4冊のうち遠の寄稿は42号(1958年4月)のみだった。しかし、「選後に」の欄で、

丁度同じ時期にぶつかつたのだが小宮山遠君から氷海同人を辞したという短い便りがあつた。

という文章を見つけることができた。この「同じ時期」というのはいつ頃か。前段で「さいきん」の話があるが、詳しい時期は不明だ。ただ、次の43号が8月発行のため、「道標」は年に3回ほどの発行か。42号の印刷は1958年の4月5日で、どのようなスケジュールで原稿を集めているか分からないにしても、その「便り」は1957年の末から1958年の3月といった時期に届いたのではないかと推測できる。

このことは、2001年に刊行された『黒鳥傳説』(二冊目の句集だが、第一句集『喪服』から約30年経っており、「この間に「第七氷河期」と「梟」の二著の企てをした」が刊行に至らなかったため、四番目の句集ともいえる)の著者略歴の、

一九五七年結社誌の在り方に疑念を抱き、其の後は同人誌のみに拠る。

の記述と一致する。

ただ、角川「俳句」(1970年6月号)では佐藤鬼房が『喪服』書評「硬質の心象」で、

はたして昭和三十年を境に、彼は独自の方法を漸次身につけて行くようになる。「氷海」を自らの意志で退いたのもこの歳である。

と書いているが、昭和30年(1955年)となると、前述より二年の差がある。それだけなら見逃すことができたが、佐藤はその後に、

昭和三十一年以降「海または野について」から、詩観が明確になり、主体の(思想詩としての)あるときは重く暗いにしても、つねに堅固な鋼の鋭さを秘めて登場してくる。

と書いている。明らかに結社を去ったことを一つの区切りとし、句の変化を見てとっているのだからこの二年の差は困る。僕はここでは『黒鳥傳説』の略歴と、「道標」の記述が一致していることをもって、遠の結社からの離脱は1957年と考える。

『喪服』のあとがきには、

俳句らしきものを作り初めてから現在に至るまでの約二十年間の作品の中から、ほぼ三分の一に当るものを選んで一集とした。

とある。『喪服』の刊行は1969年3月20日、あとがきの日付は1968年9月10日だ。あとがきの時点で遠は37歳。俳句を作り始めて約20年なので、高校在学中に秋元不死男を知ったことが俳句を始めるきっかけになったのだろう。そして、一年ほどで「氷海」創刊と共に参加したことになる。

ややこしくなってきたので、遠の誕生から『喪服』までを年表にまとめるとこうだ。

1931年 静岡県志太郡藤枝町(現在の藤枝市)に誕生
高校生の頃、秋元不死男を知り俳句を始める(16~17歳?)
1949年 「氷海」創刊と共に参加(18歳)
1954年  西東三鬼「断崖」に投句(23歳)
1957年 結社の在り方に疑念を持ち離脱(26歳)
1958年 4月号の「道標」に「氷海」を辞した記述あり
1962年 八村広(佐古青蛾)のすすめにより、「頂点」加入。佐藤鬼房、鈴木六林男の薫陶を受ける(31歳)
1963年 地元の「海廊」に加入(32歳)
「海廊」と「海程」の間に友人である菊川貞夫・平井寛志らと「木旺」をおこすも三号で終結
1965年  金子兜太「海程」に加入(34歳)
1969年 『喪服』刊行(三青社・800円)

千葉の朝生火路獅・安藤三佐夫・山中葛子らの少誌「黒」に拠った時期や、「赤城さかえ、橋本夢道、横山林二らと東京句会の帰りにボルガで酒気をあおる(『喪服』あとがきより)」時期は正確には不明である。このメンバーと交流があったのなら、栗林一石路とも何らかの繋がりがあったのではと思うが、前述の通り(一石路追悼号である)「道程」56号には遠の寄稿はない。

『喪服』の序文は鈴木六林男が書いている。「頂点」加入からの縁である。

俳句らしきものを作り初めてから現在に至るまでの約二十年間の作品の中から、ほぼ三分の一に当るものを選んで一集とした。

僕の数え間違いでなければ『喪服』には384句あるから、単純計算で一年で60句弱。印象としてはさほど多くはないのだが、以前お話した方が、「(多作多捨の結果)去年は40句弱残った」とおっしゃっていたので、少なすぎるというほどでもないのかもしれない(このあたりの印象は人によるだろう)。

『喪服』は、「蛾の日々」・「悪夢の昨夜」・「海または野について」・「日本忌日」・「喪服」・「死者通信」・「カフカ忌日」といった七つの章に分かれ、それぞれに1~3の連作が並べられている。その配列は「大体製作順」(あとがきより)とのこと。

次の章では僕の十句選も併せ、『喪服』の内側を書きたいと思う。

第一句集『喪服』

「喪服」というタイトルについては、その「あとがき」の時点で

すでに、いろいろな人達から賛否の意見があった

と書かれている。それでも、「私の気持は変らなかった」のは、

「悲哀」と「優和」。「苦悩」と「快楽」。「強調」と「謙譲」を共有する喪服の美しさをかねがね愛し、作品の中でその美しさの持つ本質を果たしてみたいと念じてきたからである。

としている。

タイトルもそうだが、開巻にある、

くらぁいそらだ底なしの
くらぁい道だはてのない

という言葉(草野心平「わが抒情詩」)を見ても、この句集が暗く重厚な空気を纏っていることがわかる。序文で六林男は、

この重厚と暗鬱さを僕は信用する。

と書いてもいる。いよいよ内容について書いていこうと思う。

十句選

夕焼の中来て白き掌をひらく

寒卵わるとき火事に似しおもい

砂灼けていしを一事として帰る

全身に寒さ呼ぶごと踏切越ゆ

枯田には天かにあり牛帰る

冬田見えバターでつぶす麺麭パンの面

永き日の生やパン屑膝にこぼし

切手甘し遠く日当る木の車

蛸突きの少年に汐吃り満つ

鳥の目光る山頂めざしわが柩

別にパンが特別好きではないのにパンの句が二句も入ってしまった。「全身に寒さ呼ぶごと」や「枯田には天かにあり」といった書き方は見事だ。「切手」の甘さと遠くの景色への切り替え、「汐」が「吃り満つ」という表現にも感嘆する。

十句に選んだのは定型のものが多い。遠には結構な割合で破調がある。

無性に欲しい眠り投げられ投げられる木箱

坂を無灯の自転車生ぐさい手の領域

つめたい耳持つ夕刊煉瓦色の妻子

こうした句は破調であることに加えて、そもそも要素が多い気がする。一句に無理に収まっている感じがして、僕には意味がとれない。また、

密度で迫る塔の冬空つくる<俺>

祖国持たぬめたい階で点灯ともる俺

といった句の「俺」には驚く。夢道には

人間が人間にペコペコして組織のねえ俺達が搾取されどうしだ

ぼろタクシーよ俺は乗るどころじゃない十二月

といった句がある。この「俺達」と「俺」は温度が違うものかもしれないが、夢道の「俺」は「まだ理解できる」と思う。しかし遠の「俺」は、急に出てきた人格という感じで驚くのだ。この違いはなんなのだろう……。

同じく要素の多さを感じるも、

言葉で示す意志真っ白に岬の友

スイッチ撥ねて林檎が灯る冬夜寮

は意味がとれる。言葉で意志を示してくれる(示しあえる)友がいて、その意志のはっきりとした感じと、岬の景色が「白」に響き合っている。また、冬の夜に寮の部屋のスイッチを押せば、置いてあった林檎が照らされてそれ自体が灯っているように感じる、といったところか。

「Weird World 3 倉阪鬼一郎の怪しい世界」(2017年11月27日)では、「面」122号に掲載された遠の遺作を読むことができる。発行人の高橋龍さんが二十句選したもので、それと比較すると『喪服』はかなり要素を詰め込んだ、意味の渋滞した句が多いように思った。

つづく

長くなりそうなので、杉本雷造の『喪服』評や「俳句人」に掲載された座談会の内容、そして遺作との比較については次回書くことにします。