相子智恵『呼応』十句選

十句選

一つ前のブログにも書いたように、相子智恵さんの『呼応』を呼んだ。とにかくすごくて、十句に絞るのが大変だったけれども選をした。ただ読んでいるだけなのと、選をするつもりで読むのとではまた力の入るところが違って面白い。

まゐつたと言ひて楽しき夕立かな

僕は本心の一歩手前で言葉が止まっているみたいなコミュニケーションを傍から見ているのが好きだ。例を挙げるなら、自分がずっと悩んできたことについて、深く悩まないタイプの友人に即答されて、「君って……本当に単純なんだなぁ」と呆気にとられながらも嬉しそうにする、みたいなやつだ。「単純」という感想の奥に、「そんなところに救われている」とか「羨ましい」という本心がある。けれども、言葉がその手前で止まっているから、表情と言葉が一致しないことがある。この句もそんな感じで、「まゐつた」は本来苦しいときの言葉だし、実際夕立に濡れることは快か不快かで言えば不快なのだろうけれど、夕立に降られても「まゐつた」と言って、そう言える相手がいて楽しい、という感じがする。誰かにこの雨の日のことを、「いやあ、本当に参ったよあのときは」と話すときも、この人は嬉しそうな顔をしていると思う。

壁紙の噓の木目やそぞろ寒

「壁紙の噓の木目」、よく分かる。パターンがよく見るとどこかで終わり、最初の柄が繰り返されているやつだ。晩秋、壁をじっと見ていて動かずにいると、その冬が近い寒さがより感じられたのかもしれない。

短日や立てて少なきマヨネーズ

なんとなく使ってきたマヨネーズが出にくくなり、キャップを下にして使い始め、あるときに「この細い部分にしか溜まっていない。いよいよ残りが少ないな」と感じる。「短」と「少」がかなり近く見えたが、それでも〈立てる〉という行為がマヨネーズを少なくさせたようにも見えて、認識としても面白い句だと思った。

ゴールポスト遠く向きあふ桜かな

確かにゴールポストは向き合っている。でもそう感じたことは今までないかもしれない。距離が遠いからだ。「遠く向きあふ」と言われると、運動場全体うつすようにカメラが引かれ、ゴールポストの一対が画角に収まる。そうすることで、周辺に植えてあった桜の木も入ってくる。名句だと思う。

青葉風静まりに葉の遅れけり

葉が風で鳴る。風が止む。葉は風と共に止まるわけではなく、ややさざめいてから静かになる。その景色を今まで何度も見てきたけれども、句にされるとこうも鮮やかなのだと驚いた。「静まりに」の言い方に技術がある。

日盛や梯子貼りつくガスタンク

序文で小澤實さんも書かれているが、中七の表現がすごい。その影をもしっかりと感じることができる。「HIざかりやHAしごHAりつく」の子音hの重なりも見事な句。

すでに暗き汝が顔夜店離れれば

祭の夜店から離れると、もうあなたの顔が暗い。そう気づくのは明るかったときを見ていたからで、静かな凝視を感じる。賑やかな感じの一瞬の暗さの切り取り方は、狩行の「踊る輪の暗きところを暗く過ぎ」を思い出した。

証明写真カーテンに足見えて夏

証明写真の機械の中に人が入っていて、その足だけ見えている。厚手のカーテンに仕切られたあの空間は夏はそれほど快適ではないと思う。上だけしっかりした服を着て、下は案外ラフなのかもしれない。もしかしたらサンダルなのかも。そんなことが想像されて楽しい句だった。

大匙に収まる小匙夜の秋

匙がセットになって、一つの輪でまとめられているタイプのものを想像した。夜になると涼しくなる頃を表す「夜の秋」が、匙の金属質な冷たさとよく響き合っている。

遠きテレビ消すリモコンや去年今年

「遠きテレビ」とわざわざいうのだから、いつもはもっと近くでリモコンを操作しているのかもしれない。年越しそばの用意をして、さあ食べようというときか、もう寝ようというときか。家族で団欒していて、実は流すだけで見ていなかったテレビかもしれない。「去年今年」という年が切り替わるときの季語が、この部屋の空気や音量も変えてしまうかのようだ。

他にもたくさん気になる句があったが、きりがないのでひとまず十句選をここに記した。本当によい句集だと思う。