『現代短歌』2021年9月号

『現代短歌』9月号について書き残しておこうと思う。僕が特集「Anthology of 60 Tanka Poets born after 1990」の寄稿者として現物を送っていただく前から、その「編集後記」についてはTwitter等で議論がされていた。

このアンソロジーに自分がなぜ呼ばれなかったのか、不満顔のきみのために理由を書こう。声をかけようとしたが、きみの連絡先がわからない。TwitterのDMにも無反応だ。それ以前に、最近のきみは同人誌でも存在感が薄く、作歌を続けているのかどうかも怪しかったのだ。 掘り出した石は君の宝物で、人に見せたいが、市に並べて値踏みをされるのは御免だという気持ちはわかる。だが、こうして市が開かれてみると、もっと見事な自分の石がそこにないことに、きみは茫然とする。ぼくらにできるのは今日仕入れることのできた六百個の石ができるだけきれいに見えるように並べることだ。次の市は未定だけれど、そのときまでに、きみの磨いた石を見せてほしい。

僕はこの文章を見たときに、「(今日仕入れることのできた)石」として自分の歌が扱われていることにまず衝撃を受けた。自分はこのアンソロジーに〈呼ばれた〉側だが、〈呼ばれた側〉にも〈呼ばれなかった〉側にも失礼な態度だと思う。

呼ばれるためには「連絡先」が分かることが条件のひとつのように読めるが、蓋を開けてみたら連絡先を特に開示していない寄稿者だっていた。あらゆる人からDMを受け取れる設定にしたり、メールアドレスを自己紹介欄に分かるように書いたりできるのは、一部の人間だ。そして、それができるからえらいわけではない。個人情報を守ることは(わざわざ言うことでもないが)正しいし、何も悪くない。

「炎上商法」だと言う人もいたが、その真意は僕には分からない。「炎上」したものが売れる、というシステムが(本当にあるとするなら)理解できないということも大きい。信頼だとか、今後の売り上げだとか、長期的に見て失うものの方が多いし、短歌の総合誌なんてものは、その号だけ売れてあとはなんとかなるジャンルでもないだろうと思う。若者を焚きつける(やる気を出させる)論法だと解釈している人たちもいたけれど、随分好意的な解釈だなと思った。あの言葉がどのような考えから出されたか、それは僕には分かるはずもなく、ただ読んだときに悲しさと悔しさが押し寄せてきた。

締切が明らかにタイトだったり、原稿料が明らかに少ない(実質ゼロ)だったりすると困ったなぁ、と思うこともあったけれど、今回だって依頼をいただけたときは嬉しかったのだ。どんな人と名前が並ぶのだろう、どんな歌や評が読めるのだろう、と。実際、(生年の関係で笠木拓さんはいないけれど)「遠泳」のメンバーと一気に名を連ねたことはかつてなかったからとても嬉しかったし、巻頭で坂井ユリさんの50首連作が読めるなんて! と興奮した。作品連載や書評、京大短歌でお世話になった大森静佳さんと藪内亮輔さんの対談が載っていることも嬉しい驚きだった。

特集の冒頭には、アルチュール・ランボオ「大売出し」(「イリュミナシオン所収、粟津則雄訳)の言葉が引かれている。その一部に

無検査のダイアモンドの大売出し!

とあるが、編集後記の「石」と関連して引かれていることは間違いないだろう。

そんなつもりで歌を出したんじゃない。

そして更に驚いたのが、対談が、出した60人の歌の中から10首選んで話をする、という内容だったことだ。自選10首というものは難しく(どれもいい歌だと思って作っているのだから)、誰に見られるのか、どんなテーマで選ぶのか、ということによって変わるだろうと思う。テーマによっては同じ10首選でも1首も被らない、なんてことだってありえる。依頼の段階で、さらに選があることを教えてもらっていたら僕の選も変わっていた。僕はその対談でさらに〈選ばれる/選ばれない〉の差が生まれていることに愕然とした。対談の最後の方の編集部の

そろそろ紙数が尽きました。

という言葉を読んだとき、一瞬混乱した。つまり、そこにあるのが600首(60人×10首)の原稿なのか、お二人の10首選の原稿なのかは分からないが、出した歌はレジュメのように扱われているんだ、と分かったとき心底悲しかった。僕は特集に歌を出したはずだったが。僕が依頼のときに対談のことを聞いた上で選をしても、選ばれることはなかったかもしれない。けれど、こんなに説明不足の企画に参加してしまっていたんだ、と思った。自分が作ってきた歌を、影響を受けた一首への評を読んでほしくて、自分が好きで尊敬している他の歌人のそれも読んでほしくて、もっと晴れやかな気持ちで宣伝したかったのに、と思った。

僕は今まで、寄稿する総合誌の企画に疑問を持ってこなかった。笹井賞受賞前には依頼はいただいたことはないし、受賞後だって連作や書評を出すだけで、こうして銘打って特集に出したことは初めてだと思う。僕が原稿依頼を受けるのは、お声掛けいただいたことへの嬉しさもあるし、僕の名前や作品が誰かの目に留まることが多くなればなるほど、僕の歌集が売れるかもしれないという希望があるからだ。色々な人が仕事をして作り上げてくれた歌集が、一人でも多くの人に読まれることを、僕がまず願っているからだ。しかし、こうして原稿依頼をどんどん受ける僕の態度が、「使いやすい(若い)歌人」という像を大きくしているのではないか、という気持ちに苛まれた。実際それは半分合っていると思うし、僕が依頼を断っても、また別の歌人に声がかかるだけではないかという絶望もまた、ある。

この総合誌に関連した検索をすると、「好きな歌人が出ているから買いたかったけれどやめる」といった旨のツイートもあり、心が痛んだ。他の人の歌や評に罪はなく、僕も参加者として読んでほしい気持ちはあった。現物を受け取る前は、読み込んで考えがまとまったら宣伝をしようと思っていた。けれど、今はそれも難しい。買って読んでくださいとはとても言えない。

最後に他の方の歌や評を引く。

まずは巻頭の坂井ユリさんの50首連作「セゾン」より、

君の手がいくつか折っていく紙の飛行機、はやく絶頂よ来て

見切れるという語せつなしコンタクトレンズの川の光は射して

どうしたら私は無害 食卓の翳るあたりにモッツァレラ置く

藤棚の藤があなたへ垂れ下がるいくらあなたを呼び戻そうと

「どうしたら~」や、1首目の

搾取だと告げたる人のなにひとつ跡ののこさぬ渡り鳥たち

や、35首目の

消費だとあなたは言えり通話のち井戸ほど暗きiPhone画面

に顕著だが、他にも他者との関わりに生まれてしまう暴力性に苦しむ歌が多くある。その他者とは家族であったり、同じ空間で過ごす時間が長い、近しい人々を特に念頭に置いているように思う。

人間のつくりしなべておぞましく家族のごとき鉄棒に雨

桜木が、母の背中が、ゆれている わたしがゆれているだけなのに

など。

また、体温やニュースの歌の連なりの後で、

遠くには祭囃子が鳴りやまず鳴りやめられず生贄だから

という歌が48首目に置かれているが、これは今まさに始まってしまう五輪のことだと思わずにはいられない。坂井さんは、「おもき光源」という連作で第31回歌壇賞候補になっている(そのときも僕は記事を書いた)。社会の問題や思想を、完成度の高い歌にすることができる凄い歌人だと思う。

また、アンソロジーでは、雪吉千春さんの

香水にきみは包まれ 疲れたね、オリジナルがいいなんて幻想
痛いって泣いてみせればいいのかな面影にいつもある芥子の花

などの歌がとても好きだった。

連載11回目を迎える川野芽生さんの「幻象録」では、「「美しさ」を愛することの暴力性」について書かれている。美しい人を愛すること、動物をかわいいということへの忌避、ならば生命のないものならよいと言えるのか? という疑問。千種創一さんの『砂丘律』についても言及されている。

千種の歌がかっこいいのは、千種が上手に演出した舞台を見せられているからで。そこに登場する他者は、すべて作中主体の横顔を美しく照らし出すための小道具になってしまっている。

千種の歌における他者は「思い通りにならない真の意味での他者」ではなく、受け身の存在であることを指摘し、それゆえに

作中主体の呼びかけは失敗することなく、つねにかっこよく決まる。

ことを指摘する。その呼びかけの例としてあげられるのは、

舟が寄り添ったときだけ桟橋は橋だから君、今しかないよ

などの歌だ。僕もこの歌を読んだときにはそのかっこよさに驚いたものだが、同時に整えられた舞台を思わないではいられなかった。

第Ⅵ部のエピグラフに引かれた、「砂漠を歩くと、関係がこじれてもう話せなくなってしまった人と、死んだ人と、何が違うんだろうって思う」という言葉は作者自身のツイートから来ているのだが、これは、自分のドラマを去ってしまった人は存在しないのと同じ、という自己中心的な世界観を示している。自分のドラマのためだけに他者を支配する、千種の相聞歌の手つきが見える。

このツイートを僕もおそらく見たことがあり(いわゆる「バズった」ものだったと思う)、何年も前だったので当時は僕も「確かになぁ」と思ったが、今見ると「いや、それは違う、何故ならその人は「生きている」からだ」と思う。その人はその人の人生を生きている。もう互いの人生が交わらないだけで、続いている。途中で終わったり、終わらせられたものではない。存在している。生きている。

僕も他者との関わりにおいて、その人のよい部分だけを搾取していると感じることがある。僕の歌、そして更に言えば僕の(「推し」がいる)生活を知っている人なら、同じような危惧を僕の作品に対して持つのではないか。『悪友』のあとがきや、二次創作短歌についての記事でも触れたことで、自覚があるからいいとか、自覚が〈免罪〉になることはない。誓うにはあまりに危うい存在だと思いながらも、「他者を(今後も/今後は)支配しない」ことには尽力したい。「支配しない」状態を続ける、ということしかできないのかもしれないけれど。

川野さんの評の最後の、

そうした暴力にひらきなおることなく、書くこと、特に「美しさ」を書くことは果たして可能なのだろうか。

について、考え続けていきたいと思った。

最後に。アンソロジー対談の大森さんの、

けど、ちょっとやっぱり全体にさわやかで淡い感じがして、もう少し怖いもの、破れたもの、凄まじいものを読みたい、自分も詠んでいきたいという気持ちがあります。

この言葉を読んだとき、心が定まったという感じがした。この対談に僕の歌がないこともまた、僕が歌集出版以降夢中で走ってきたうちに忘れかけていた渇望を呼び戻してくれた。その意味で、僕はこの特集には感謝している。